Mahashivaratri Puja, Four Nadis of the Heart

(Italy)

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Mahashivaratri Puja. Chianciano Terme (Italy), 16 February 1991.

今日私たちは サダシヴァを崇拝するために 集まりました 私たちの内にシヴァとして スピリットとして反映しています 彼は私たちのハートに 反映しています 私たちの人生の目標は スピリットの状態に到達することです 先日何冊か 本を読みました スピリットを知るための リアリぜーションを どのように求めたか いかに人々が 苦しんだかについてです まず彼らは 自らを拒絶したり 無視したり 身体を痛めつけるよう求められました 身体が快適さを求めれば まずベッドではなく 絨毯の上に寝るように言われました それでもだめなら ゴザの上に寝て それでもだめなら 大地に寝るようにし それでも身体が嫌がれば 石の上に寝るようにしました それでも ヒマラヤはほど遠く シヴァは カイラス山にいるからです なのでヒマラヤに行き 氷の上に寝ました これは最低限 求められました もし良い食べ物を 好むなら 贅沢な食べ物を好み 沢山食べたいのなら まず好きな食べ物を 全て拒むように言われます 例えばイタリア人なら パスタを食べられません それを断念します しかしそれでも 十分ではありません その後 大変苦い物を食べます 禅のように108倍もの 苦さの物を食べます 完全に苦い物 あるいは完全に甘い物です 舌を試します それでもまだ 食欲があります 過食するなら 一日断食します 十分でないなら 7日間断食します 次に40日間断食します 一か月は30日なので 40日断食したらもう死んでいます そのようにして ニルヴァナの苦行をしました 死んでいるなら いずれにせよニルヴァナを得ます 何も残りません 骨だけです その骨がニルヴァナになっても 結局は死に至り 終わりになります 疑いなくニルヴァナです 次に家には住みません 快適だからです 妻や子供 全員を断念し 布だけをまとい 物乞いをします その布でさえ執着するので 問題となります そこで誰もいない ヒマラヤに行き 服を脱ぎ 寒さの中 震えながら耐えます そしてニルヴァナを得ます 身体の欲求をなくすため まずこのような 条件が課せられました “ニルヴァナを得るためなら 何もいらない”と言い聞かせました 第二に快楽さ 喜びを求めようとさせる頭を なくすことでした 例えば何かとても 欲しているものがあるとします それを拒みます 頭が言うものに “いらない いらない”と言います サンスクリット語で シュロカがあります “これもいらない これもいらない” と言い続けます そして初めて ニルヴァナのことを口にできます その前はニルヴァナのことを 話すことすらできません この本を読んだとき “これはやりすぎだ”と言いました サハジャ ヨガでは 全くその逆です まず建物の小尖塔を建て 次に土台を建てます はじめに得るものは サハスララの開花です そしてそのサハスララの光で 自分自身を見なければいけません ヴァイブレーションを通して 内省することの方が良いのです そして見ることです なぜ私はこれを望み アテンションが 快適さにいくのか なぜ食べ物や自分の家族 子供にいくのか 至高の状態に 到達しなければいけないのに そこで内省し始めます すると自分のヴァイブレーションで 何かがおかしいとわかります 他の者の何がおかしいのか 見ません 自分自身を見ようとします 得なければいけないのは あなた自身の上昇だからです しかし昔はこのようなことが 個人レベルで行われました ニルヴァナを得ようとする者は 人里離れたところに行き 人を遠ざけ 関わらないようにして 上昇を リアリゼーションを 得ようとしました 自分のためだけにです 他の人のためではありません その者は完全に隠者となり 誰とも話さず 会わず 人里離れた山の頂で 瞑想しました 近づく者には石を投げ ひどいことを言って 決して 会おうとしませんでした サハジャ ヨガは違います サハジャ ヨガは 全体の上昇です このような個人の達成は 何にもなりませんでした 聖人はもちろん 人々と話し リアリゼーションについて 神について 徳や価値観について 教えようとしましたが 人は彼らを変人と見なし 苦しめ困らせました なので個人レベルの 上昇の段階では それについて話したり 教えたりする以外には サハジャ ヨガが始まるまで 手立てはありませんでした 話すことすら 禁止されていました インドでは12世紀まで 公の場では 誰も話しませんでした すべてサンスクリット語でした 数人の熱望者だけが理解できる 難しいサンスクリット語の本でした 極少数の者に 説明されました それでもリアリゼーションを 与えることは拒否されました なので一人の師に 弟子が一人つきました すべて個人的な上昇 個人的なワークアウトでした 弟子は他の者から遠ざけられ 内密に働きかけました その者は歌ったり 詩を書いたり 至福について 話したかもしれませんが 他者にリアリゼーションを与える 権利はありませんでしたし 与え方も知りませんでした あなた方がどれほど 上昇したかおわかりでしょう 断念することもなく リアリゼーションを得ました より広く 働きかけられます リアリゼーションを与えれます サハジャ ヨガについての 精妙な知識を知っています 今日は私たちが知るべき 大切なことをお話しします 知ることは とても大切です 教会に行くかのように サハジャ ヨガをする人がいるからです ハートからしていません ハートは スピリットの住まいです 私たちの内にいる シヴァです なのでハートについて 知らないといけません とても大切なことです ご存じのように 三つのナディがあります イダ ピンガラ スシュムナですが ハートには 四つのナディがあります 一つ目のナディは ムラダーラに行きます ムラダーラの一線を越えると 地獄に落ちます それゆえシヴァは 破壊者であると言われています 実際自ら 破壊を招きます 自ら招き そうなります すべて滅ぼしたとしてもです 実がなるとき花びらは 朽ちていくように見えます あなたの コンディショニングやエゴ 人種主義 熱狂主義が 破壊されるようにです これらすべて サハジャ ヨガで破壊されます 美しさが現れてくるために 破壊されなければいけないものです ある境界線を越えると 自らの破壊に至ります 四つのナディがあるので 四つの方向で破壊があります ではどうすべきでしょう 最初のナディが地獄へといくのに この破壊をどう食い止めるのでしょう シヴァの資質の一つは 純真です 彼は非常に純真です 子供のようです 彼は純真を体現しています なので 私たちの世俗的な欲求を 純真に 純真の大海に 溶け込ませないといけません 純真の大海に 溶け込ませます 純真は その良さをわかり 理解し 楽しまれないといけません 動物を見ると純真です 子供たちを見ても 花を見ても 純真です あなたのアテンションを これらに向けなさい 道を歩くとき 高さ100センチ以下に 目をやるのが最良です 100センチ以下には 花や 美しい芝や 子供たちがいます そちらに 目を向けると良いです それ以上の高さのものに 目をやる必要はありません 100センチ高さのものを 見なさい 人の脚を見ても 構いません 純真でない人の目は 見ないことです ですからこの欲求を 純真さに溶け込ませなさい 純真であるこのムラダーラは 朽ちることなく 純真で高潔です シュリ ガネーシャの資質です 純粋です この世俗にいようとも 人間のように暮らしていたとしても 子供がいたとしても あなたは純真であり続けます 一度シュリ クリシュナの 妻たちが 彼には1万6千人の 妻がいました それにもう5人です 1万6千人は彼の力でした そして5人は要素です 彼女たちは大変有名な聖人に 祈願しようと願いました 彼に会って 敬意を払おうとしました そこでシュリ クリシュナの 許しを請いましたが 川が氾濫し 渡ることが困難だと知り 渡れませんでした 彼女たちは戻り “どのように渡ればいいのでしょう” と言いました クリシュナは “そこに行き こう言いなさい” “シュリ クリシュナが ヨゲシワラであるなら” “性的に完全に純真なら 水よ沈まりなさい” “そんなことはできるのだろうか 私たちは数多くの妻です” 彼女たちは川に行き その通り言いました すると水が 引き始めました 彼女たちは夫の言ったことに 大変驚きました そして川を渡り そのリシを崇拝し また戻ろうとしました するとまた川が氾濫していました そこでリシのもとに戻り どうすれば良いか尋ねました 彼に“どのように渡ったか”尋ねられ シュリ クリシュナの話をしました 彼女たちはリシに沢山の食べ物や 果物をもてなしていました “では川に行き リシが 全く何も食べていないと言いなさい” 彼女たちは驚きました 彼女たちが戻って川にそう伝えると 川の水が引きました ですからこの世俗に生きていても 妻であり 夫であったとしても 結婚していても あなたは純真でいられます 完全に純真でいられます それが純粋の象徴です あなたを破滅へと導く 二番目のナディは欲望です それゆえお釈迦様は 欲望を持たないことが 老いない 病気にならない 心配にならない 唯一の道であると言ったのです 私たちが持つ “欲しい”という欲求は どこよりも 西洋に強くあります 企業家が日々新たな物を 生産しているからです 例えば髪に関しても 女性は様々なウィッグを欲しがります “これが欲しかった このウィッグをつけたい” 他の女性は “私はこれがいい”と言います 男性の欲しがるものといえば “彼がロールスロイスを持つなら 私も持たなけらば” 他者のロールスロイスを 楽しむことができません 自分の物でなければいけません 所有していなければいけません 欲求は物質的なものでなくても 何にでも持てます メンタルなものでも あり得ます “この女性は この子は 自分のものだ” 様々な所有欲として でてきます それが執着のためだとは 言えません 執着ではなく ただもっと 自分のものにしたいのです どんどん自分のものにしても 幸せや満足感は感じません このような欲求の理由は それが純粋な望みではないからです 不純な望みです そのような望みが働くと 極端に走ることもあります サダム フセインや ヒットラーのようにです 限度を超えた 完全な欲求に他なりません 他者を支配したいのです これもまた 別の欲求です このような欲求は 最終的に破壊へと導きます 歓びや 幸せがないからです 例えば サリーが欲しいとします するとサリーを 買いたいと思います アテンションがいかにサリーを 手にするかにすべて注がれます アテンションがつまらないものの ために汚され乱されます スピリットを楽しみ 養うアテンションが 欲求のために乱されます 第一に純真でないので アテンションが乱されます 第二に欲求があるので アテンションが混乱します では欲求に対して 私たちはどうしたらいいでしょう 欲求は物質的欲求から 審美的な欲求へと 美しいものへと移すことができます 真に審美的に 豊かなものを持つようにします それがシヴァの資質だからです 彼がすべてに審美を与えています 例えばこれが簡素に見えるとします 機械的だともいうかもしれません もしシヴァの仕事なら 彼はそれを美しいものにするでしょう ですからシヴァの資質は ブランマデーヴァによって 創造され ヴィシュヌによって進化したもの すべてを美化することです 審美的なものを創造する 精妙な仕事をするのが彼です 光が沢山写っている私の写真を 見たことがあるでしょう 彼の仕事です 彼がしています 彼が光を放ち あなたに私のことを 納得させるために写し出しています なので彼の仕事は 審美的なものを創り出すことです 振る舞いの美しさ 詩の美しさをです 創造する全てが 美しく創られます 歓びを与えるものにします それが彼の資質です ですからあなたが 望むものが何であれ それをワークアウトさせ 手作りの審美的なものを望めば 次第にヴァイブレーションに 行きつくとわかるでしょう 美しいもの全てに ヴァイブレーションがあるからです ヴァイブレーションに至るには 純粋な望みでないといけません なので狂気に満ちた あなたを狂ったようにさせる つまらない退屈な欲求が 純粋な望みになります あなたの欲求すべてを ヴァイブレーションに 溶け込ませないといけないからです しばらくするとあなたは ヴァイブレーション以外は求めなくなります ヴァイブレーションのない物を 買いません ヴァイブレーションがない者とは 話しません 相手にヴァイブレーションが全く なければ逃げ出すでしょう 猿に追いかけられているかのように 人から逃げる者もいます よく見ると 酔っ払いであったりします 以前は自分が 酔っ払いだったかもしれません “今はもう沢山だ とんでもない” 以前ヒッピーだった者達と 一緒にいたことがありました 今はあなた方同様普通で サハジャ ヨギです その時4、5人のヒッピーが プログラムに来ました ラフリだったと思います 彼らが恐怖を感じていたので 私は“どうしたのですか” そこでやってきたヒッピーたちを 見ようと振り返りましたが その時には彼らは 出て行っていました ですからすべての欲求が ヴァイブレーションに終わります そうでなければ 何か欠けていると知るべきです そうならなければ あなたは終いに破滅します 彼が破壊者であると言うのは 一方的な捉え方です 彼には 両方の力があります あなたにヴァイブレーションを 与える力があります 彼が与えます 女神がその力 シャクティですが 彼がヴァイブレーションを創ります 例えば これは指ですが あなたをくすぐれば それはシヴァです 指は女神のです くすぐれば 歓びや幸せを与えます それはシヴァです バクティです バクティの歓びは シヴァから来ます 今日お話ししましたが ある女性が デヴィの献身者で バクティについて沢山学んでいました 沢山のことを知っていて 私に溶け込んでいました 彼女が何をしてきたか 知りませんが 通常人が デヴィについて読めば “これはデヴィについてで これはマタジについて”と分けます 人はデヴィについて 読んでいるとは知りません 彼女は “マザー 私には分かります” “貴方がいかに 優しいか綴っています” “女神がいかに私に触れ 私の面倒をみているか” “いかに注意が 私に注がれているか” “カタクシャ カタクシャ ニルクシャナ” という文があります “すべての一瞥が視察です” 視察は適切な言葉 ではありません ニルクシャナは 神聖な視察という意味です “いつも貴方であると感じます 常に貴方です” “音楽を聴けば感じます 私を見ています” “私を感じています 養っています” “いつも貴方の愛を感じます” このようにバクティがでてきます あなたにあるヴァイブレーションは 無味乾燥ではありません それはバクティの歓びです バクティを崇拝や 他の言葉に変えたとしても 神である愛の大海です あなたはそれに浸るだけです それは言葉で表現できません あなたが感じるのは それなのです スピリットであなたと あなたのお母さん あるいはお父さんとの つながりを持てたのです 違いはありません あなたはその大海と一つです 大海に浸っています あなたは滴であり 大海です そのバクティと 一つなのです そのバクティは 機械的ではありえません 人間の作るものでは ないからです なので サハジャ ヨガを楽しむとき それは無味乾燥な ヴァイブレーションではなく バクティだと知るべきです それが シヴァの資質の歓びです 彼が私たちの人生に 与える歓びの資質です すべてが取り囲まれているように 反響しているように見えます 歓びも同じです “私は神に愛されている” “神が私を愛していて 私の人生に意義がある”と感じるなら まずエゴがなくなります そしてコンディショニングも なくなります 三番目のナディは 私たちが執着を感じる 人に執着を感じるナディです 例えばこれは私の子供です 夫です 家族です 妻 父 母です サハジャ ヨガを始めると皆 初心者なので 自分の家族全員のことを 話します “私の父がこうです 母は病気です 母の妹の兄が具合悪いです” まるで契約を 結んだかのようです 今日ある人に聞きました ある夫婦が最初の子供を 亡くしたそうです 別の部屋に 寝かせたからです “小さい子は母親と寝るべきです 面倒を見るべきです”と言いました インドにはそのような 母親はいません それができなければ 夫を追い出すでしょう “一緒に寝るべきだと伝えなさい” と言いましたが 彼らは信じません どうしようもありません その子の面倒を見るという 契約はありませんが 私たちの言うことさえ 耳に傾けません 始めの頃に 良くある考えですが “マザー サハジャ ヨガを 一か月していますが” “私の経済的な問題が 改善しません” まるで私をそのために 訴えるかのようです 私ががっかりさせた かのようです 自分たちはサハジャ ヨガを始めた ばかりだと理解していません あるいは何年もしていても サハジャ ヨギではないのです 何か欠けています それに値しません サハジャ ヨガでなく あなたに問題があります しかし人は何か契約を 交わしたかのように感じます すぐさま知らせてきます “この人 あの人が病気です サハジャ ヨギを5人送ってください” 何のためでしょう これらの執着が 私たちの内で働きます ある者は自分の子供に 大変執着します そして甘やかし続けます “私の子 私の子” すると突如 子供が悪魔のように なっていると気付きます 口答えしたり ひどいことを言ったり 暴力を振ったり 不作法に振る舞います 愛情を注いだのに ひどくなったとわかります さらにひどく感じます “私はこんなに妻に 夫に尽くしたのに このような仕打ちをされている” なぜそんなに尽くすのですか 必要はありません そうするなら ただ尽くし あとは忘れなさい 私はそのように 感じたことはありません 一生懸命働きかけた ヨギが堕落しました 私が気に掛けるなら “今後どうなってゆくのか” それが唯一の関心です 私に何が起こるかではありません 何も私には起こらないからです 彼らが罪深いのであれば 彼らの将来を案じます ですから違います このような執着をサンスクリット語で ママットゥといいます “これは私のです これは私の子 私の 私の” あなたの親族がサハジャ ヨギです 覚えておいてください 次のことを 覚えておいてください “私の親族は サハジャ ヨギだけです” “妻や子供であろうと誰も” “サハジャ ヨギを 困らせたりさせない” “そうならば私とは 関係ない者である” サハジャ ヨギに害を及ばさない限り 関係は大丈夫です サハジャ ヨギを傷つけるなら 関係はないからです そのような者を沢山見てきました すばらしいヨギで 自分の妻や子の 肩を持ちません もしそうするなら彼らを罪深く だめにしてしまうからです 自分の上昇を気にかけます 家族に他のヨギを 困らせることはさせません 刃向かう 問題を起こす 暴力的な子供をみてきました 親は“マザー 正してください 貴方にお任せします” 他の者なら“私の子はそんなことを する子じゃない”と言うでしょう なので分別を 理解しないといけません “なぜ私は執着をするのか” この直喩を 何回も与えました まるで 樹液が上がっていき 木の様々なところに行き 幹 枝 葉 花 実を滋養し 戻るか 蒸発するかと同じです どこにも執着しません 一か所に偏れば 木は死んでしまいます そしてその樹液が行ったところも また死んでしまいます しかし樹液の方が 私たちより分別があります 彼女たちにとって 夫が第一です 夫や妻に関して 数多く問題があります なのでグルは“サニヤーシに なりなさい”と言いました “そうすれが妻子について 話さないでしょう” “まずサニヤーシになりなさい” グルの頭痛の種も なくなります 家族の話をするなりグルは “出ていきなさい”と言ったものです しかしサハジャ ヨガには より深い仕事があります 社会面 政治面 経済面に 入り込まなければいけません 全世界の解放です あなたの 責任を理解しなさい 個人の禁欲的な上昇のために いるわけではありません あなたは全世界を解放するために 選ばれたと理解するのに どれほどの叡智 愛 分別 が必要でしょう 破壊へと 至らせないための方法は いわゆる限られた愛ではなく 無限の愛です シヴァは愛に他ならないからです 彼は愛です あなたを正し 滋養し あなたの善を望む愛です それがシヴァです あなたの善を望みます あなたの善の面倒をみます 他の者の善のために 愛でもって尽くすなら 人生が変わります 生活が変わります それを楽しみます なぜなら 多くの者や多くの家族 他の者の問題に 関心を持て その者達と一つであると 感じるからです 今日沢山の サハジャ ヨギがここにいます 初めて イタリアに行った時 グレゴアーの奥さん キャサリーンと行きました 彼女が唯一 イタリア語を話せました ホールを予約し 広告を載せるよう 新聞社に頼みましたがだめでした 結果誰も来ませんでした そこで彼女とチラシを張るのに 回りましたが誰も来ませんでした 今日沢山の人がいます 私達はお互い愛で つながっていると知るべきです その愛は私たちの善のため 私たちの上昇のためです するとみんなを楽しめます 人種や国やその人については 気にしません サハジャ ヨギであるだけです あなたは普遍的な 人格になります この姿勢で なければいけません インド人の若い女性が 苦しめられていると聞いて なぜそのようなことが できるでしょう 肌が黒いからといって インド人が下層階級だからといって 不当な扱いをするなど ありえません 全員が全体の 一部分だからです みんな同じ母から生まれた 兄弟姉妹です しかしこれは 偉大な 無限の愛の大海に あなたの限定された関係を 溶け込ませたときに可能です それができないなら 正当化しないことです ただ自分自身を目撃します 自分が皆を真に 愛しているか見なさい 私は常に 買い物に行くと “これはあの人に 良いかもしれない”と考えます 自分自身のために 何か買うのは不可能です 早急に必要でない限り ないと困るのでなければですが 喉が渇いていても 飲み物ですら買いません すべてが他者のための 歓びだからです “これはあの人に良いだろう この人に似あうだろう” これらすべては 最も歓びに満ちたことです 他にはありません 自分のことを考えると “なぜ私はここにいるのでしょう” “私は皆を楽しむために ここにいます” “皆リアライズ ソウルです” “美しい蓮の花です” “私は泥とは無関係です” “私はもはや蓮の花です” このようにして ハートを開きます あなたのハートの蓮をです そのような者の香りは 大変すばらしいです あなたは分裂的になりません お互いばらばらになりたいと 思いません どこでも構いません 快く同意するでしょう ここでなければ あそこでなければとは思いません 皆一緒であればです あなたにある 小さな執着を シヴァであるこの愛の大海に 溶け込ませないといけません 四番目は 私たち皆にとって大切です レフト ヴィシュディを通って ハートへとつながるナディです ハートから始まり 上にあがって アギヤを通ります 4つの花弁があり 開きます トゥーリヤと呼ばれる状態を あなたに与えます 私たちは3つの状態において 生きています 起きている状態 ジャグルティにおいて 私たちのアテンションは散漫します アテンションを汚します 二つ目の状態は いわゆる寝ている状態です 眠っていると 過去に起こったことが 甦ってきます そしてスシュプティと呼ばれる 深い眠りがあります 深い眠りの状態です 現実の夢を見ます 私のことを 夢で見るかもしれません 潜在意識の エーテルの部分のようです そこですばらしい情報が 得られます 例えばイタリアに 私が行くとします イタリア人はスシュプティで 私が来たと分かるでしょう 人によります 四番目の状態はトゥーリヤで もう二つ状態があります あなたは トゥーリヤの状態にいます “トゥーリヤ”は 四番目の意味です 思考を超えた意識状態が 四番目の状態です 思考がないとき あなたは純真です 思考がないとき ヴァイブレーションがあります 思考がないとき 誰にも執着しません “トゥーリヤ スティティ”です この状態にあなたがいると あなたの内にある これらの四つの花弁が脳で開きます あなたのハートから 脳にいきます そこであなたは 神が何であるか 完全に理解します 完全に神を理解します その時 真の知識を人は得ます しかし四つの花弁が開かない限り また戻ります それゆえ サハジャ ヨギの中には 手を付けるべきでないものに 手を出す者がいます 彼らは神が何であるか 理解していません それもある一つの点を理解するような 理解ではありません それはハートから 脳へといくものです 脳からハートではありません それはまるで 蜜のようなバクティが 脳を覆うようです 完全にです 例えば シャンカラチャリヤが 素晴らしい論文 “ヴィベカ チュダマニ”を書きました 神は何かを記しました “ヴィベカ”とは意識のことです それについて語っています しかしシャーマというひどい人が 彼に抗議しました 彼をうんざりさせました そこで彼は “サンダリヤ ラハリ”を書きました お母さんを称賛する マントラでした “私はお母さんを知っている 称賛させてほしい” “討論は必要ない 愚か者には理解できまい” 彼は悟りました “彼らは私が知ることを理解する 能力も感受性も持っていない” 真の知識は神が何であるか 分かることです それが神であるなら なぜあなたは疑ったり 分析したりすることがありますか 神です すべてを知っていて 成していて 楽しんでいる全能なる神です それこそギャーナというべき 真の知識です 純粋な知識です チャクラの知識 ヴァイブレーションの知識 クンダリーニの知識でもありません 全能なる神の知識です そして全能なる神の知識は メンタルではありません もう一度言います ハートから始まり 脳に行きます 歓びの経験から来るものが 脳を覆います すると脳はもはや それを否定できません あなたはお母さんの愛を 知っています でも説明できません あなたのハートから来ます “お母さんはそのようなことはしない 良く知っている” お母さんについての知識は・・・ 生みのお母さんはいいお母さんとは いえないかもしれませんが 愛であり 真実であり すべてを知る神についての知識は あなたの一部になります その時ニルヴァナであると 言えます 特に西洋の人にとって ハートを開くことはとても大切です ハートから始まり 脳からではないからです 人をヴァイブレーションで 判断してはいけません 自分自身を常に判断しなさい シヴァ プージャはより多くの説明と 理解を意味します 他のプージャでは 様々なマントラなどがあるからです しかしこのプージャでは 知識を知ることです それは神です 神を知るということは すばらしいことです 彼女がマハマヤであれ何であれ “私は彼女を知っている”ということです 一冊の本でも100冊の本でも 説明できません 言葉では説明できません 神を分かることです つまりそれが神です 全能なる神です そしてそれがあなたに 素晴らしいサレンダーを与えます そこは愛の大海において 完全な安心感をあなたに感じさせます その状態を皆が 得られることを願います 神の祝福がありますように