Shri Buddha Puja, You must become desireless

Brielpoort Deinze, Deinze (Belgium)


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Shri Buddha Puja, “You must become desireless”. Deinze (Belgium), 4 August 1991.

今日 私たちは ブッダ プージャのために 集まりました ご存じのように ブッダは王子でした ある日 彼は 貧しい男を見て ショックを受けます やせて通りを歩く とても不幸な人でした 彼はそれを 悲しく思いました 次に彼は 病気で 瀕死の人を見ます 更には 亡くなった人を見て 人々は泣きながら 火葬場へ 遺体を運んでいました 彼は これら全てに狼狽し 考え始めます あらゆる人間的な 現象に対して 理由を探し始めました まず なぜ人は それほど 惨めになり または 病気になるのか なぜ人はそれほど 不幸に亡くなるのか 彼は ある意味 世界中を旅し ウパニシャッドを読み グルの下へ行きました 精神的教えを受けるため あらゆる場所に赴き ベナレスや多くの場所に 行きました 最後は 菩提樹の下に 座っている時に 突如として彼の クンダリーニがアディシャクティ によって覚醒しました そして 悟りました これら全ての原因は 欲望にあると 悟りました サハジャ ヨガでは 私たちは 他のすべての欲望は 純粋ではないことを 知っています 第一に どんな欲望であれ 満たされたとしても 満足することはありません 第二に 欲望は 悪影響をもたらします では 純粋な欲望とは 何でしょう ご存知のとおり クンダリーニです クンダリーニとは 純粋な欲求の力です 精霊になろうとする 欲求を与えます ブッダつまり 目覚めた者となるための 欲求です ブッダとは “悟りを得た者” という意味です なので ゴータマが ブッダになったということです 皆さんが 今はサハジャ ヨギに なったようにです しかし 彼は様々な 苦行を経たので すでに学んだことが 身についていました サハジャ ヨガは 全てがサハジャ(自然)です しかし 私たちは何でも “これも結局サハジャだから” と結論付けます そして 何かをしようとする際も “最後は自然に上手くいくよ” “いいよ マザーが全てなさるから” といつも言います これはサハジャ ヨガで よく見られる間違いです あなたに長い経過を課すか それとも すぐリアリゼーションを与えるかは 私の問題でした 混乱した今の時代には あなたに長い経過を課す 時間はないからです ブッダにはできましたが あなた方には困難でしょう 何人やり抜けるか わかりません ほとんどが途中で 脱落するでしょう なので それを サハジャにしました あなたは菩提樹の下で座ることもなく リアリゼーションを得ました クンダリーニが 引き起こされ 自らを悟りました ですが ブッダのような悟りが あなたに起こったわけでは ありません チャクラがブッダほど 浄化されていないからです でも 体も心も ブッダと同じで リアリゼーションを得た際の 態度も同じです 私たちは神の家を 探していたので 未だ 神の家ばかり 見ています ですが あなたは もう入っています 窓の外を 見ないといけません それを忘れがちです 私たちは 丘の頂に座っていて 交通渋滞などから 自由なのに まだ車を見ながら 恐れています 自分が丘の頂にいることを 知らないのです お母さんが あなたを そこに置いたのに そのように あなたは 振る舞っています 自分が リアライズ ソールだと 解っていないヨギの話を 耳にすると驚きます それゆえブッダは 無欲について唱えています リアリゼーション以前には 無理なことです 後ですら難しいようです ある微妙な欲求があり それを あなたはワークアウト しなければなりません しかし“エゴがキャッチする” と言って ワークアウトさせません つまり状況に合わせて あるやり方をしたり 別のやり方を したりするのです あらゆることの解決は 一つです 私自身 見つけたことですが コレクティブな現象が 解決するということです 個人では人は エゴを克服できません 個人主義の人は エゴを克服できません 個人的に生活し 全てを個人的に 楽しむ者は エゴを克服できません 例の苦行を 経ていないからです でなければ 個人主義の者は苦行を経てから 戻ってきたほうが 良いでしょう ですから 解決は 全てのチャクラを 浄化することです 人生そのものを コレクティブの中で 浄化します これが エゴの問題の 解決法です 以前なら 皆が個人的に ワークアウトしていました ヒマラヤに 行かなければなりません グルに付いても 追い出されたり また別のグルに行っても 追い出され 生まれ変わっても 再び追い出されるでしょう 最後にグルに 受け入れられても ムチ打たれたり 拷問にかけられたりします その上でようやく その個人に近づく グルがいれば リアリゼーションを 与えられるでしょう そんな状況でした ですが サハジャ ヨガでは ドアが開かれているので 誰でも入れます リアリゼーションを 得られます 私はコレクティブに 信念があるので コレクティブでの生活は 間違いなく あなたに ブッダが個人的な 努力を経て得たものを 与えるでしょう しかし そこでも 私たちは どうコレクティブになればいいか 分からなくなったります 個人主義はいつも 私たちについてまわります なんでも個人的に考えます コレクティブが良いところは サハジャ ヨガも上手くいき 良くないところは 問題が生じています 自分自身を 見つめることは とても大切です 自分がどれほどコレクティブか 見ることです コレクティブを 楽しんでいるかどうか コレクティブを 目的にしているか カベラという場所について 思った時 すぐにその川の畔に アシュラムを建てよう と思いました “マザー 自分の家を 買ってもいいですか” と尋ねる者がいました すぐにです 何が目的でしょう “マザー うちに食事に いらしてください” “お茶にいらしてください” と言います 私には興味がありません サハジャ ヨガでは あなたが コレクティブにならない限り 上昇も 自分を磨くことも 浄化することも 不可能です ブッダもある意味 言っています “ブッダン シャラナン ガッチャーミ” まず “私は自らの悟りに帰依します” そして “ダンマン シャラナン ガッチャーミ” “ダルマ 徳に帰依します” それは スピリチュアリティです そして 彼は三番目に “サンガン シャラナン ガッチャーミ” サンガとは コレクティブのことです “私は自らをコレクティブに 帰依します” しかし 彼はリアリゼーションを 集団に与える方法を知りませんでした なので 弟子達は 頭を丸めなければ いけませんでした 身分や性別に関係なく 一枚の布をまといました そして 大部屋で 一枚のマットの上に 寝ました 結婚も夫婦も 全く存在しません 村で施しを 乞いに行き それをグルや 自らの食事としました 不十分で あったとしてもです これは サハジャ ヨガでは ありません サハジャ ヨガでは 最初からなんでも楽しめて あなたは完全に 喜ばしい人のはずです しかし コレクティブの歓びを 知らずには 成長できません 他にはありません 苦行は無意味です コレクティブを 楽しむようになるまでは 苦行だと 感じる者もいます すぐ問題を起こし とても批判的です アシュラムにいながら 人を批判ばかりする者もいます 完全に 高次の意識を持つ者は 洗脳されません 完全な意識と理解でもって コレクティブに ならないといけません これが 私たちの浄化の 解決法です 例えば 私の手が 汚れているとします そこで 蛇口のところへ行き 一滴しか水が出なければ 洗えません そして別の場所へ行くと 水が出ません 三番目の場所でも 何もない事を知ります 最後にようやく 少しの水を見つけます そこで完全に洗うでしょう 他で無理なのを 知っているからです しかし サハジャ ヨガでは あなたは コレクティブの水に 浸っているのです あなたが それを楽しめて 泳ぐことができれば 何の問題もありません ブッダはご存知のとおり ライト サイドで作用します アギヤです 驚くことに 彼のような神格が ライト サイドで作用します まず 彼はライト サイドにおいて 執着しないこと 無欲であることを 唱えています 無欲なら 何も得るものがないのなら 誰も何もしないでしょう 普通の場合はそうです ですが あなたは 無欲に働く必要があります そうして初めて ライト サイドが 克服されます とても象徴的です 普通 ライト サイドの人は 痩せています しかし ブッダは太っています ライト サイドの人は 往々にして極端に真面目です くすぐっても 笑わないくらいです ブッダは両手を広げて 笑い 楽しんでいました この対比を見てください なので 無欲に働いて 初めて そういった意識が 持てます いつも 笑っていられるでしょう しかし 自分がやっていると 考える者 何か欲がある者 金儲けを考えるような 低級な者は 意味のないことを続けます それはどんどん 巧妙になります 人が精妙になると 色々な欲も 徐々に精妙になるものです 気を付けなければ 急に出てきます 彼はライト サイドに 位置し レフト サイドへ 渡ります 彼は言っています “ライト サイドにおいて” “無欲であれ”と なんという対比でしょう 特に西洋で何かをする度 ため息するのを見かけます スプーンを持っただけです そして そのまま座ります 私が全く疲れないので 驚かれました 私は何もしていません 欲はありません 実際何もしません ニシクリヤです 何もしません このようにあなたが 帰依した道具になれば 自分は何もしていない と知れば ライト サイドを マスターすることが できるでしょう どうやって マスターするかというと 何もしないことです どの店でも とにかく入れば 何か見つかるでしょう 何もせずにです 無欲でいれば 思いもしなかった事が 突然 現れるでしょう すぐそこに あなたのためにあります ただ受け取りなさい なので 何かを 達成しようとして 働くと 反動が返ってきます どんな行動も 反動があります 無欲な行動は 反動がありません そもそも 無欲だからです どこかで私が 道に迷ったとしましょう 慌てることはありません そこに行く必要が あったのかもしれません 何かを買おうとするときも 城だとしても 同じです 買うべきことと 欲は異なります “イタリアに家を買います” と急に言うこともあります そして城を見たところ よくありませんでした 構いません 次の城は “いくら出しても買うべきです” と皆が気に入りました 場所が気に入りませんでしたが “皆の願いを叶えましょう” と言いました しかし 皆だまされました 結局 彼らが乗り気でない 別のを買いました 私はそもそも無欲だったので 満足しています すると 最高の結果と なりました 結局 最高のことが 私には起こるからです なんであれ 私に起こることは 最高のことだと知っています 常に 私や サハジャ ヨガのために 起こります 誰かがサハジャ ヨガを 批判するとします すばらしい インドでも ある雑誌で ラジニーシが ある人物を通して 私を批判しました その女性は私の写真を盗み 勝手に譲渡しました 私の家族は憤慨し 兄弟も夫も 訴えようとしました 私は“その考えは好みません” と言いました それでいて デリーでの 最初のプログラムは 大勢の人が来ました 車で入れないほどでした 会場の外まで 人が溢れていて ホールの外に スピーカーを 設置したほどでした どうやって来たのか 尋ねると 彼らは “あの週刊誌の写真を見て” “興味を持ちました” と言うのです 何も読まずにです ハルシもそうです 多くがそうやって来ました ただ写真を見て来ました ですから 写真が盗まれたものの 良かったのです 相当な費用がかかるところ 全く宣伝費用もいらずに 写真が掲載されたのです そして私の家族も その雑誌が 半年間休刊になり 莫大な損失を 出したのを見ました それも 私は願っていません 無欲なら あなたは幸せです 落ち込むことが ないからです イライラもありません 無欲というのは 禁欲主義者のように なる事ではありません 期待をしない ということです “これをすればこうなり あれが起こるから・・・” 心配しないことです したいことをしなさい ひとつ覚えておくことは あなたに何も ひどいことは起きません 悪いことが起こっているなら 何かあなたが間違っているということです もうひとつ言います 私は少し転びました 少しだけです すると “家から出ないほうがいいです” “雨なので関節炎になります” と言うのです そんな事はないのですが 家にいる機会を得て 本を書きました 転んで良かったのです でなければ 招かれたでしょう 家族も 休日で家にいて この四、五日で 書き上げることができました 落胆を最高に 利用するのです 落胆することがあっても 微笑み これもあなたの 新しい発見のため より良い何かを見つけるため だと知りなさい しかし コンディショニングは 強いものです だから“コレクティブでいなさい” と言います 例えば 私たちは インド人 フランス人と様々です 皆のコンディショニング があります インド人ならどこでも インド料理を食べたがるし とても難しい状況です その意味では皆さん どんなインド料理でも食べられます 私はインド料理を さほど好みません 美味しいけれど 栄養がありません でも あなた方は 何を食べても頓着しません 良いことです でも欲はべつです あえて言う必要もありません 例えば 女性に化粧品や重いものを あまり持ち歩かないように言いましたが ここに来る度に 大きくて重いスーツケースで 男性達が 手を痛めています 私は“みすぼらしい恰好で” “歩きまわりなさい” と言っているわけではなく 最低限にしなさい と言っているのです リーダー達の 競争もあったり 他の者の間でも 問題が起こります 西洋では食べ物ではなく 家庭の問題があります インドにもです インド人の妻や ギリシャ人の妻は 夫を自分に縛り付けようとします よくあることです ギリシャ人も インド人のように 夫や自分の成長を ダメにします それは事実です とても支配的です インドの女性は支配的ではありませんが 夫をコントロールしようとします 家を持とうとしたり インド人は コレクティブを知りません とても個人主義的です もちろん今は サハジャ ヨガを通して少しずつ 他人といることを 学んでいます 文化的に違う人もいます 自分の文化に固執しがちですが 良い文化は取り入れるべきです 普遍的な文化が サハジャにあるからです ですが 人は つまずくことが多々あります コンディショニングのせいです 故にブッダの同時代に 偉大な化身マハヴィーラが存在しました コンディショニングに こだわる人にとって 何が罰となるかを 指摘しました 彼は恐ろしいことを 話しました コンディショニングを 持つとどうなるか どんな状況に 追いやられるか どんな地獄に行き着くか 恐ろしいことを 述べました もちろん今日は その話をしません しかし 彼と同時代の聖人に 共通するのは ブッダやカビーラも そうでしたが カビーラはブッダほどでは なかったけれど 神について 話さないということです 神ではなく 抽象的な 形のないものについて 話します 当時 最もひどい コンディショニングは 如何なる神格でも 崇拝すれば 皆が 奴隷のようになる ということです モハメッドも形のないもの について話しました しかし 二人は 先を行っていて “神はいません 神について話すより リアリゼーションを得なさい”と言いました 私も当初 “まずリアリゼーションを 得なさい”と言いました でないと 誰もが ”私が神だ” と言い出しかねないからです だから 彼らも神について 話しませんでした 常に“神ではなく あなたの 自己が存在する”と言ったのです 彼らはニリシュワラと呼ばれ 神の話をタブーにしました 二人とも神を 信じませんでした しかし リアリゼーションは 信じました 彼らは 私が来て 神について 話すことを 知っていました ブッダは未来のブッダ つまり マトレーヤについて 話していました 「マ」は母を意味し 三つの形姿 マハカリ マハラクシュミ マハサラスヴァティを指します 仏教徒にマトレーヤについて 質問させれば そこでリアリゼーションを 与えられるでしょう 彼はマトレーヤについて 話しています マトレーヤがやってきて 神について話すことを 知っていたからです 彼らによると 人はまだ 神について話を聞く 段階ではなかった と言います それで “神はいない” と言ったのです リアリゼーションのみを 強調しました アトマギャーン 自己の知識のみです セルフ リアリゼーションです 初期の仏教徒は 当然ながら 皆 禁欲主義でしたが グノスティクスのように 精霊の涼しい風を感じる 体験をしていました ですが少数でした あなた達ほど 多くではありません ただ 質は とても高いものでした なぜなら 皆が 大変な 苦行をしたからです それで 彼らの質が 高かったのです その質の違いが 大きかったために 他の人々に 理解されませんでした 廃れてしまいました しかし ヴィディタマによって 禅がもたらされました ブッダの弟子です タオも起こりました これらはどちらも ブッダのサハジャ ヨガの 理想を体現しています タオは サハジャそのものです “それが如何に働くか” という意味があります 禅とはディヤーナ 瞑想という意味です どちらもクンダリーニの 覚醒を信じました 誰の脊柱も 叩きませんでしたが 後になって 瞑想に人を導くために 棒で叩くようになりました タオも禅も 仏教から出たものです 本来の仏教 と言うべきでしょう 上昇について話し 神については 話しませんでした しかし 目的は同じで ブッダ(自己)に なることでした しかし 廃れてしまいました 私は禅の代表者を 治療したことがあります なぜ カッシャパでないのに リーダーなのかと尋ねました カッシャパとは “覚醒した人”です 彼は“カッシャパは 数えて26人しかいなく” “6世紀に 始まりましたが” “ほんの何人かいただけで” “その後いなくなった” と打ち明けました あなた方は どんなに幸運でしょう 覚醒した人たちです 私たちの菩提樹は コレクティブです 私たちは コレクティブとして 一体になることで 自らをより精妙にする 必要があります それは 大変喜ばしく 美しいものです それができないと サハジャでは 成長できません 問題をおこしたり 皆に迷惑をかけます アテンションは悪く 皆が 耐えがたい思いをします ブッダのメッセージは もちろん エゴを 大きくしないことです しかし どうすれば 良いのでしょう まず 何をするにつけ “私がしているのではありません” と言うことです “これは マザーが 行っています” もしくは “神が行っています” “私は何もしていません” サハジャのために何かしている と感じているなら それを止めた方が 良いでしょう そうでなく “何もしていないけれど” “たまたまそうなったのです ただそれだけです” そうなれば あなたは 大きな達成を成し遂げます 二つ目は欲望です どんな欲望であれ 大きなものでも 小さなものでも 我が子や妻を 愛することであれ “私の” “私のもの” と言うすべて こういったすべての 欲求は それが満たされず 不満に感じるなら 何かあなたに非がある ということになります しかし コレクティビティを 理解すれば とても早く 成長できます インド人は 極めて信心深く 自制のある人々ですが コレクティビティに 欠けています 彼らがコレクティブになれば 突出できます 唯一 良い国はロシアです 共産主義なので コレクティブで 無欲です あらゆる欲求は 共産主義によって満たされ 他に選択肢が ありませんでした そしてコレクティブです ある意味 共産主義は 政府でなく民衆に合いました 反対に民主主義は 政府にくみして 民衆が苦労しました なので 私たちは コレクティブを学ばずに きたのです コレクティブは西洋で 早く発達するでしょう 疑いありません ずっと早いでしょう しかし 無欲にあまり なれないでしょう 歯を持つ人もいれば 食べ物を持つ人もいる状況です 自分をありのままに見て “この問題かあの問題かの どちらかだ”と理解するなら その偏りを正そうとするなら 解決できるでしょう 一つを解決することで 他も解決できるからです 中庸に立って 自分を見て “自分の欲は何か”と 一つ一つ数えなさい “私の欲求は何か”と問えば 私は無思考状態になります ひどいものです “何が欲しいか”と問うと 思考がなくなってしまうのです “エゴを持とう” と思っても どこから始めてよいか 分かりません “皆エゴを持っているのだから 私もあるのではないか”と思っても どうにも始められません 私たちには こんなコンディションングもあります 負い目を持つことです ブッダの時代には ありませんでした 負い目を感じるというのは 現代のやり方です 何らかのモダニズムに 違いありません なぜこうなるのか わかりません この現代のひどい “負い目”を浄化させる 役目を 私が 担うことになります ブッダの時代には ありませんでした でなければ 彼は 道を作ったでしょう 彼はレフト ヴィシュッディの 浄化を託しました なので 私のレフト ヴィシュッディが いつも痛んでいます これは特に 西洋でひどい現象で インド人には全くありません しかし これは克服できます ご存知のように ブッダもマハヴィーラも アギヤのセンターを サポートしています なので とてもクリアな アギヤ チャクラを持つには 一方では無欲になり 許す必要があります “クシャム”です クシャムとは許すための ビジャ マントラです ライト サイドのための ビジャ マントラです クシャム 私は許します そして レフト サイドは “ハム”です レフト サイドの人はいつも “私はダメだ”と考えがちです “私は良い”と 言うべきです “ハム”は“私は存在する” という意味です ハムとクシャムは必要な 二つのビジャ マントラです もちろん唱えると 作用します 今やあなたの息吹が 啓発されたからです まだ弱いですが 構いません あなたのマントラは 効きます これら二つのマントラを アギヤ チャクラの浄化に 使いなさい マハヴィーラは 解決法を持っています リアリゼーションの後 キャッチすると アギヤに 頭痛を感じます それがマハヴィーラ のスタイルです 何か間違えると 罰を受けます 何かに耽溺すると 罰を受けます サハジャに反すると 罰を受けます 私ではなく マハヴィーラがするのです 同時に働きます 賢くなろうとしすぎると 裏をかかれます この二つの力が 右から左へ 左から右へと働きます 右に行きすぎると 左があなたを強く叩きます 左に行きすぎると 右があなたを強く叩きます それぞれが 挟み撃ちのようです 一人は “欲を持つな”と言い もう一方で“はい 欲がありますね” と罰を与えます “子供が欲しい” と言う者がいます 子供を授かると“マザー なぜこんな ひどい子を私に授けたのですか” と言います 例えば 誰かが “マハラシュトラの女性と 結婚したい”と言うと 最近あったケースですが “マザー マハラシュトラの女性と 結婚させてください”と言ったので 特別な形で 罰せられました ”マハラシュトラの女性は もうたくさんです”と言います 私もあんなマハラシュトラ出身の 女性は見たことがありません 恐ろしいです こだわりの強い 女性でした “もうたくさんです” と彼らは言いますが “違います 他の皆は すばらしいです” “これはあなたに罰を与える為の まれなケースです” なので 何か欲があって 一線を越えると 罰せられます マハヴィーラによるものです 小さくも大きくもです 例えば ロンドンに 小さな男の子が来ました とても生意気な子です 何か買って もらいたがりました 普通の店に連れていくと そこにウールの 良いコートがありましたが 欲しがりません “大きな店に行きたい” “良いでしょう 私は行きませんが” と言い 父親に行かせました 帰ってくると その店で合成繊維のコートを 買ってきました 合成とは知らずにです いつも普通の店で 買い物をせず 大きな店で高いものを 買うので 高いお金を払い それを買ってきたのです サハジャ ヨギは 常に マハヴィーラがそこに 座っているのを知るべきです ブッダもそこにいて 彼は あなたに示唆を 与えます “止めておきなさい” “あまり欲を持たないように” 彼が限界を作ります でもそれに耳を貸さなければ マハヴィーラが正します ある程度まで行くと 頭痛がしてきて “マザー なぜ頭痛がするのですか” と言うのです 自分で招きました すごい自動の機械です サハジャ ヨギとして とても気をつけるべきです なので 今日の教訓は 内側からコレクティブに なる必要がある ということです 何であれ 文句や不満を言わずに コレクティブを 楽しむべきです コレクティブの もう一面は コレクティブを 乱用しないということです さもないと 問題になります 例えば バスルームの使い方を 知らない人がいます コレクティブであるなら 他者のコレクティビティも 尊敬するべきです あなたがいることで 他の人が気分を害することが あってはならないし 侮辱されたり 迷惑に感じたり するべきではありません なので コレクティブにいるときは 他の人があなたと一緒に いることを楽しむべきで あなたの存在を 楽しむべきなのです 問題は存在しません でも要求がましかったり 自分のことばかり考え その要求ばかりすれば コレクティブになることは不可能です 代わりに 苦労するでしょう 自動的に 苦労することになります これにきちんと 気づいて理解すれば あなたのアギヤは解決です 怒りについても “彼に腹が立つ”と 自慢げに言う人がいます 自慢しています その怒りをただ 許しに変えなさい すると 自分が 彼の問題に はまり込むことなく 彼が問題に はまって行くでしょう 怒りは あなたを乱しますが 許しは 彼を乱します 自動的にです あなたの最も大きな 武器が許しです ブッダの人格に それがよく現れています 許しは 自尊心を与えます どんなことにも乱されない という自尊心です まるで 船が 航海できるようです 浮かべて壊れるなら 船を作る意味はありません いつも心乱されている サハジャ ヨギに 何の意味があるでしょう あなたは航海に 適していないといけません 何にも 乱されることはありません 犬が吠えているとします 吠えさせておきなさい 象が犬を見て 水を少し飲み その水を祝福するように かけます そうすることで 頭は冷えるでしょう あなたに自尊心を 与えるでしょう そしてあなたが他者よりも ずっと崇高であると知るのです そのようにして エゴを取り除きます あなたにとって 最大の問題です “マザー どうやったら エゴをなくせますか” エゴは ユーゴー(you go) と言い換えられます この“自分”の意識がなくなった時 自己が現れます 傷ついたり 気分を害することがありますか 人を傷つけることが あるでしょうか 誰かに騙されたとしても あなたが騙したわけでは ないのですから 機嫌よくしていなさい エゴを 失くしたということは 自らを 委ねたということです 誰もあなたを騙せません わかりますか 誰もあなたを騙せません ある高次の力が あなたを守るからです この様にブッダを 理解するべきです ブッダの性質を 知る必要があります この様に エゴを溶かすのです “マザー 私はあなたに帰依します” と言う時 それは この酷いエゴを 完全に あきらめる ということなのです そうです そうやって エゴがなくなるのです ちょうど今 あなた方のアギヤが 開きました ほとんどがです 何を見ても 笑っていられるでしょう 自分をからかったり 何であれ ただ楽しむでしょう 神のご加護が ありますように