クリスマス プージャ、人生でキリストを表現しなさい

Ganapatipule (India)

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クリスマス プージャ、1992年12月25日、ガナパティプーレ(インド)

[Hindi translation missing]

キリストについて そしてイエス キリストと シュリ ラダジとの関連性について 多くお話ししてきました 彼はアディ シャクティの息子である シュリ ガネーシャの化身でした 次にシュリ ラダジに授けられ シュリ ラーダは マハ ラクシュミに 偉大な化身キリストの母 メアリになりました 西洋の人は 無原罪懐胎を理解できません スピリチュアルな生き方に対する 感受性が全くないからです インド人には理解できます シュリ ガネ―シャが 同じように創られたからです 信じて疑うことはしません 限られた脳で 神について疑うべきではありません インドでは疑いません しかし西洋では この限られた脳でキリストの誕生 についても口論します キリストの名の下にある 宗教はただ汚れていて ひどいことが言われていて 信じがたいほどです 彼の純粋さ 神聖さ 吉兆さは 西洋では決して理解されません なぜキリスト教徒は 徳ある人格において 品格を失えるのでしょう 政治的 経済的 法的な面は 良いとしても 彼らの道徳面は 完全に欠如しています キリストの信奉者は 最も徳の深い者であるべきです 彼曰く “汝 姦淫の目を持つなかれ” 大変精妙な意味合いです 目でさえ姦淫してはいけない 欲や色情を持ってはいけないと 大変精妙なことを言っています 西洋では それに従えませんでした パウロやペテロの影響で 宗教全体が汚れてしまったからです キリストに反する深刻なことを しました 未だ続いています カトリック教会は暴露されてはいますが 未だ続いています インドでも至る所にあります プロテスタント教会もあります キリストの名誉なんて 気にもしません キリストが真っ先に言ったことは 神の王国に入らないといけない 再び生まれないといけない ということです 再び生まれるについてもメンタルで 証明書があるだけです 西洋のメンタルな 捉え方のせいで 偉大な化身である キリストを殺しています ある意味また 十字に架けているのです メンタルにはスピリテュアルな ものは理解できません 頭脳に頼りなさいと言いますが サハジャ ヨガでは これは理解できません サハジャ ヨガにおいて 脳は何の意味を持つでしょう 思考を超えた意識状態において 頭脳は何の意味も持ちません 他の領域で頭脳に頼っても サハジャ ヨガでは違います 頭脳に頼って何ができるのか 理解できません 中には壇上で 演説をすることを好み 脳に頼ろうします そういう者は 頭脳に頼りますが 大事なのは 頭脳ではなくハートです ハートが開かないといけません 脳を働かせてすることといえば あらゆる類の物資主義です ナンセンスなことは 人間の脳からきます 動物の脳からは あまりありません どの森へ行ってもきれいで 良い香りがしますが そこに一人でも人間が行けば その汚れは人間が残した ゴミだとわかります 同様にすべての 偉大な化身がしたことを 人は台無しにしています 最悪なのは キリストにしたことです 無駄なことをしたと思います なので私たちは 正しくキリストを理解すべきです 彼は永遠の子どもです 純真そのものです 純真の源です そして彼はすべてのチャクラに 祝福を与える者です だからと言ってあなたがキリスト教徒だと 誇らしくすることではありません サハジャ ヨギの中には未だ キリストと同一視する者がいます 全くキリストとは関係ありません 彼の奇跡に満ちた人生の中で キリストがいかに沢山の奇跡を 起こしたか理解すべきです まず第一に 彼の誕生は純潔でした 人はマリアの出産が処女降誕か議論 しています すべての化身の誕生は純潔です 彼らは罪を超越しています 特別です 人間や天使 いかなる姿で化身したとしても 彼らは神聖で 人間の小さな脳で 議論はできないと理解しないといけません ただサレンダーし 崇拝するだけです 彼らは私たちを 遥かに超越しています ですからこの西洋の頭が 理解すべきことは キリストの人生が すばらしい恵みであって それを人は見失い 無駄にしてきたということです 人はそれに対していかに敬意を払うべきか 理解してきませんでした すべてが政治的 経済的 意味のないペテンになりました 大分前に私たちはキリストが ガネ―シャであると証明し 彼はロゴスであり いわゆるブランマナトゥ 初めの音であるとお話ししました ムラダ―ラを左側から右に見ると スワスティカに見えます 炭素原子でできているからです 右から左に見ると オムカラに見えます 下から上部を見ると アルファとオメガに見えます 当時キリストは “私がアルファで オメガです” と言いました 今やアニメにもなっています どうにか見られるといいですが それらを明白にみれます 私が言っていることを 証明するものです ガネーシャを崇拝するように キリストも崇拝しなければいけません ヒンズー教徒は ガネ―シャに固執し キリスト教徒は キリストに固執しています サハジャ ヨガをしていても 人はその特性を持ち続けます ある程度まで ガネ―シャを崇拝したとしても 彼の化身であるキリストにも 祈りを捧げることは大切です 同じようにキリストを崇拝する者は ガネ―シャも崇拝すべきです 彼が源であり キリストへと発展するからです これはすべて神聖の計画通りで 神聖な分別で成されました すべてが美しく 成されましたが 人間は美しいものを 台無しにするのが得意なようです 大変悲しいことです 彼の誕生日である今日 私たちは決意しなければいけません アルファでありオメガである彼が 内で正しく再び生まれりべきだと 彼の時代に人がこのシンボルを 知っていたとは知りませんでした これらのシンボルは無意識の領域から 偉大な数学者に降りて来たに違いありません なのでこれらのシンボルは正確に アルファとオメガのように使われてきました 彼をはっきりと 見ることができます サハジャ ヨガでは とても明白です 沢山のことを感知でき 証明できます いかにキリストが人を治し 何をしたか すべて感知できます サハジャ ヨガでいかにこの力が 作用したか証明できますが まず自分たちの人生を 浄化しないといけません 大変誠実で力強い 純粋な人生を歩まないといけません 外で店を出していますが ここに店を出さないように言いました サハジャ ヨガのためでなく 自分たちのために利益を得ているからです 一度キリストもそのような者に ハンターを連れ一撃しました 私はしません ですが彼らを 奨励してはいけません ここはショッピング センター ではありません あなた方は 瞑想するために来ました 必要なものは買ってあります それを買えば多少利益となり それはサハジャ ヨガに還元されます 個人的な目的に 使われません しかし外からの人たちは店を出し あなた方はそこに群がります 何のために ここに来たのですか ガナパティプーレにいるなら 常に瞑想的でいるべきです 常に瞑想状態でいるべきです あなたが外でするようにつまらないことに 囚われてはいけません あの者たちはあなたに未だ弱みがあると 分かっているので店を出しているのです リーダーはこのようなナンセンスを 止めるべきです 外食しないよう言ったはずです 前回皆さん苦しみました なのにまだ店があります 買いたがる者が いると彼らは知っているからです 具合が悪くなり サハジャ ヨガの面目を潰します まずガネ―シャは叡智です その叡智はキリストの生き方に 見ることができます 若い頃から 彼には自信がありました 12歳で牧師たちに 説教をしました 牧師やムラやバルギー いわゆるダルマ マンタンダにです 彼はその若さで主張しました 何をしているのか 口先だけで何を話しているのかと 彼らに言いました 彼は彼らに講義し 話しをしましたが 両親は彼らに殺されるのでは ないかと心配しました そのため彼をインドに連れて行きました 叡智のためです どこでインド人はその叡智を 見失ったか分かりませんが この国は当時 叡智に満ちていました 彼はインドに しばらくいました 彼の思い出は沢山あります シャリマン王も 彼に会いました カシミールで聖なる者に会ったと 書物に描かれています 彼に名前を尋ねると “私の名前はイサです” と答えました “イ”とはヴェダでアディ シャクティのために 使われた言葉です “サ”は“と共に” という意味です 彼はそう名乗りました “どこの国から来たのですか” と尋ねると “私にとって異国の国からです そしてここが私の国です” “このインド バラタ ヒンドゥスタンは スピリチュアリティの国であり” “物質的に高みにいる 他の国と競ったり” “劣等感を感じるべきではない” と言いました ここは私の国ですと はっきりと書かれています 彼はスピリチュアリティの富むこの国こそ 彼自身の国であると認識していました ですから 私たちは物質的な つまらない 下劣な 生き方をする所ではなく そのスピリチュアリティ 国に属します 彼の大変 短かい人生において 彼の言葉はどれも すばらしいものでした しかしパウロは それを完全に変え 聖書を編集し そこに沢山書き加えました 彼の欠点すべてが そこに加えられています 最近エジプトで瓶に隠されていた 書物を手に入れました 50年前に発見したもので ハマディの蔵書と呼ばれるものです 発見された場所が ハマディでした キリストが言ったことや トーマスがインドに来た時に 書いたもので興味深いです 彼はお酒は放蕩を 引き起こすと言っています ひどい言葉で言っていますが キリスト教徒は分かっていません それどころかキリスト教では お酒は許されていると信じています 彼はお酒を許したでしょうか 意識に反することを 許すわけがありません それなのに とても良いと思っていて キリスト教では飲むことを 大きな魅力にしています 他の宗教を見ると 例えばカトリック教徒です 結婚は一度だけです なので結婚後十人の 目掛けがいても構いません 聖書にも結婚は一度で 離婚は許されないが 好きにしなさいと書かれています モラルもありません 自己から逸脱し 次から次へと無意味なものを 受け入れるだけです キリストの人生の基本は 道徳性です 彼はシュリ ガネーシャから 来ているので左側にいて その後 アギヤに 彼自身を確立しています 道徳性が 彼の生き方の真髄です インドの言葉で言うと 人格です 私たちの人格は いかに純粋な人生を歩むかです 私たちはあらゆる ナンセンスなことに耽ります 西洋の国でしていることを 見ると驚愕します 信じられない程です 口にもできません いわゆる先進国は 神へ向かっているとは思えません 私たちの想像を超えます あまりに不純で ひどく破壊的な 不道徳さです 遺伝的に何か狂っています どこからその考えが来るのでしょう 次から次へと これらのことを人々がしていて 日曜日には着飾って教会に行き 神に礼拝します 自国のこのような人々を 救う決意をするのはあなたです キリストや神の名において ナンセンスであると言わないといけません シュリ ガネーシャについても同じです プネーで見かけましたが 驚くことに シュリ ガネーシャの前で 人々は酔い 酷い歌を 西洋の歌 映画の歌を かけながら踊っていました サハジャ ヨギはこのような ナンセンスに抗議すべきです シュリ ガネーシャの前で どうして酔っぱらえるでしょう シュリ ガネーシャの 叡智が全くありません 彼の吉兆さへの 敬意がありません 酔うだけでなく 様々なことをします タントラ教の者によって シュリ ガネーシャが酷いものにされています 西洋におけるいわゆる 心理学者によっても同じです ありがたいことに フロイトは暴露されました ガネーシャのもう一つの資質は キリストの人生に見られる お母さんへの献身です その書物によると メアリは知識について 話しています しかしパウロは それに反対しています 彼女はこれを得ないといけないと 言っていますが 彼はそれを望んでいなく 彼女と口論しています そこへトーマスは 十字に架けられたキリストが 言った言葉について言及します “お母さんを心に置きなさい” “彼女はキリストのお母さんです なぜ傲慢にも彼女を軽蔑できるのか” しかしパウロはその逆で 女性に敬意を払いませんでした なので 彼は 彼女をただの女と呼びました マハラクシュミに対して 全く敬意がありません 考えられますか ただの女です いわゆる先進国では女性が牧師に 任命できるか論争しています 私たちが時代遅れだと考えますが 彼らこそ宗教において時代遅れです 私たちはお母さんを アディ シャクティとして敬意を払います 彼女こそが 私たちを創造しました 私たちを世話しています 私たちにとって彼女は シャクティは重要です 彼らは彼女をシャクティと呼ばず ただの女と呼んでいます それでいて大変 進んだ者とされていて 先進の名の下で 無意味なことをしています 話すこともできない程です 言葉もありません キリストの名において 恥ずかしく感じます 地上に化身したキリストの 純粋な人生を祝う今日において 彼らは彼がそれ程までに 純粋であったとは信じていません 犯罪者も他の者が 犯罪を犯さないとは信じられません 私たちは心の純粋さを 私たちの目を通して表されるように 育んでいるか内に見ないといけません 目は純真でないといけません そうでないと効果がありません 他の者の気を引こうと 魅了しようとしているなら あなたはサハジャ ヨギではありません いる必要もありません 一度あなたの内に光を得ると 人は分かります サハジャ ヨギとして自身の生き方に キリストの光がないといけません 彼は地上に化身した若者でした すばらしい生き方でした 彼は売春婦のマグダラのマリアとは 何の関係もありませんでしたが 真実に立ち 彼女が投石にあっている時に 立ち上がって “罪を犯していないものは 私に石を投げなさい”と言いました 何という真実の力でしょう 彼は純粋な人格で あっただけでなく その純粋さは真実 そして彼の慈悲深さ 愛にも表れています 彼は素晴らしい慈愛を 表しています シュリ ガネーシャは 少し変化したと思います シュリ ガネーシャは確かに 彼を崇拝する者に大変慈悲深いですが 彼に反対な者には 強く叩きます 彼らは苦しみます エイズなど様々な症状が来ます しかし純粋な者を シュリ ガネーシャは守ります キリストは慈悲深く許します 人は変われると 信じているからです シュリ ガネ―シャは あまりに不純であるなら殺され 再び生まれ変わった方が良いと考えます しかしキリストは人は変われると 希望を持っていました しかし叶わず 彼らは彼を十字に架けました 十字に架けるなんて 何てひどい人たちでしょう 脳もない人たちだと言えます 全くスピリチュアリティを 理解していません 真の知識に対して 感受性が全くありません サハジャ ヨガは 賢い者のみができます 愚かでまぬけな者のため ではありませんし 悪賢い者のためでもありません ある者は人生において成功している ので自分は賢いと考えます 気の利いたことや 大変鋭いことを言えたとしても 彼らのためではありません キリストは“心が柔和な者は 地球を受け継ぐであろう”と言いました 柔和な者であって自分のことばかり 考えている者ではありません サハジャ ヨギの中でも 心が柔和な者は お母さんの祝福を受けます 柔和で 賢くないといけません 叡智があってこそ 柔和になれます このすばらしい宇宙において 私たちがどこにいるか理解し 神の王国に入っていると 感じるからです 何のために なぜここに入れたのでしょう 沢山の者が 様々なことを犠牲にして 頭で立ったり 断食したり 何千年も努力をしました それがなぜ突然この祝福を 私たちが得たのでしょう どうしてここにいるのでしょう このことを考えると 私たちは柔和になります 祝福であり 恩寵です エゴからでも コンディショニング からでもありません 神の恩寵であり 慈愛 愛 サンドゥラカルナです するとあなたは 変わることができた人生を 現実であるスピリチュアリティの 新しい次元を楽しめます あなたは現実を 全体を知りました すべてを知りましたが 自分自身を知らない者は サハジャ ヨギになっていません トゥカラマが 簡単な言葉で表しました 自身を知る者は 最後の者である 他者のチャクラを批判できたとしても 自身のを見ることができなければ 他者を顧みることができても 自身が内省できなければ 人のことをすべて分かっていても 自身のことを分かっていなければ あなたは サハジャ ヨギではありません まず自身のことを 知らないといけません どんなエゴがあって どんなコンディショニングがあるのか 今でさえ人は 沢山のコンディショングがあります ですからサハジャ ヨガには 新しい鍛練があります 新しい鍛錬において柔和で 謙虚で賢くないといけません どの動き 言葉においても 叡智を表さないといけません 自動的に間違ったことをさせない 鍛錬を持たないといけません 私が歩いているところにある女性が 私の足元にひれ伏すとします 私がつまづいて倒れるかもしれないと 考えもせずすれば 自己中心的といえるでしょう 私がマザーのところに行って 足に触れなければと考えるのは すべてエゴによるものです 真のサハジャ ヨギは 後ろにいます 私がどこにでもいると 分かっているので楽しめます 近づいて会おうとしたりしません 強引にしようとはしません マザーはここにいます 心における柔和は キリストが言ったことです 柔和は大事な言葉で 人は意味を理解していません 西洋では柔和なら弱いと考えます だから攻撃的であるべきだと 人を称える時は “攻撃的で素晴らしい”と言います 彼らが遺伝子的に 低レベルなのか 中にある種の動物がいるのでしょう さもなければ なぜ攻撃的でいることが 高等だと考えれるでしょう 高等であるべき者が 悪魔のようであるのは不可能です ヒットラーは自身が悪魔であるのに 自分は高等の人間だとなぜ言えるでしょう 悪魔は自分が 高等の人間だと言います サハジャ ヨガにおける 柔和とは ビジネスマンのような外見上ではなく 自然な柔和のことです 偉大なスピリチュアリティで あなたを輝かせる自然な柔和です 自分で落ちることはできても 誰もあなたを害すことはできません どこにおいてもあなたは 守られています 自分を叩こうとするなら 私は助けられません トゥカラマの言葉のように キリストは “自己を知りなさい”と言っています 内省のまず第一は 自分自身を知ることです あなたは自分自身を 見ようとしていますか 彼は他者の目に大きな光があって それを見るなら良いと言っていますが あなたは光が目にあるのに 他者の目にその光を見ようとし始めます それでは意味がありません ですから瞑想の中で まず内省しないといけません 主イエス キリストよ シュリ ガネ―シャよ どうか私に自身の何がおかしいか 理解する叡智を 良いサハジャ ヨギとして欠けている 資質を理解する叡智を与えてください 瞑想するだけで あなたは大変幸せに 歓びを感じます あなたの中の徳が 歓びを与えるからです だからと言って自分は 徳の高い者だとは言いません しかし内に徳を発見したとき それが歓びを与えます あなたの悪い資質 渇望 欲望や貪欲さに よってではありません ですから私たちは 真に集中しなければいけません サハジャ ヨガに来ても人は有名になろうと リーダーになろうとします 別の幻です またはどうにか金儲けのために 利用しようとします そしてビジネスを始めます サハジャ ヨガやヨギと ビジネスをしてはいけません 何回も言いました そうすれば問題が起こります それで私のところに来て 相談しないでください サハジャ ヨガは神の仕事です あなたがするすべては 神のためです あなたは自己のために しているのです ですから内省は大変大切です 他者への批判は少なくして 自分を批判し笑うことが最善です 私は沢山自分のことを笑い そのことを話します 人生をもっとおもしろくします そうやって あなたのエゴを殺します キリストが言っている柔和です それは私たちの中にある 自然な良さです 一度それが輝き 現れると あなたは大変美しく 愛深くなります どこに座っていようと そのような者は私には分かります 私のハートは そのような人格に開きます その者たちが誰か 私は分かっています 分かっていたとしても 決して言いませんが 自分で分かっていた方が 私が言うよりいいのです 自身を知ることは 彼のメッセージです 自分を欺くのではなく 真の意味でです 自分を欺いてもどうしょうもありません 欺きなしに 偽りなしに 完全な集中力で 自分自身を知るのです 自分の注意が どこに行っているのか見るのです そうやって上昇します 他者の欠点を 見ることでは上昇しません 自分の欠点を見ることでのみ あなたは上昇します これこそキリストが言わんとしたことで 私は簡単な言葉で言っています さらに彼は 隣人を愛せよと言っています 大変重要なことです これはサハジャ ヨガでのみ可能です あなた方がコレクティブだからです コレクティブでない者は 隣人を愛せません 隣人とは誰でしょう 誰も隣人ではありません 外部の者です あなたがコレクティブになると、、、 今日55カ国の人がいます あなた方はコレクティブで 徳があり 美しく 複雑な問題もありません 私は喜ばしく感じますが それを完璧にするのに 私たちは内省しないといけません 社会的に コレクティブ的に あなた方は良くなりましたが 個人的にも自身の中で 自分のために良くならないといけません キリストによって偉業が成し遂げられたので この素晴らしい時に祝わないといけません ひどい牧師によって どの国でも宗教でも 彼の偉業は薄れてしまいましたが 私たちはキリストの名を唱え 真逆の ことをする者を救うと誓わないといけません それを成し遂げられるなら あなたの人生で それを得られるなら キリストの偉業は 成し遂げられます あなたはキリストを あなたの生き方に表さないといけません あなたの生き方を通して 表すことができます 純粋さ 柔和さ 慈悲深さや キリストの叡智を通して表せます 彼は完全に 恐れを持ちませんでした それゆえあなたは 恐れのない者でなければいけません あなたは神だけを 恐れるべきだからです それだけです 間違いを犯していなければ 神を恐れることもありません 神はあなたを 大変愛しているからです すべてにおいて はっきりさせなさい 理解しなさい 疑いなくあなた方は 大変愛されるべき人たちですが あなたの持つ徳のために 自身を敬慕し 愛さないといけません 神の祝福がありますように