バースデイ プージャ、気持ちは幻

New Delhi (India)

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73歳のプージャ、「気持ちは幻である」1996年3月21日、デリー(インド)

[Hindi translation missing]

今日はこころについて お話します 人はこころについて 分かっていません しかしサハジャ ヨギであれば 容易く理解できます 人は外的なもの 全てに反応するのです その理由は私たちにある 二つの悪い傾向にあります 一つはエゴで もう一つは “そのように訓練されたもの”です これをスーパーエゴ またはコンディショニングと呼びます このエゴとコンディショニングが 外界に対していつも反応します 内に組み込まれている この反応は 大海のあぶくのようです これらのあぶくが 現実から私たちを遠ざけます これらのあぶくは 思考であり 常に頭で噴き出しています どこから来るかも分かりません 自分で作り上げた 思考に頼れば 何が正しくて何が間違っているかの 理解において分別を失います 口論や喧嘩 所有欲 終いには戦争も引き起こされます 幻に過ぎないこの思考による 破壊的な考えは さらに大きくなります そして感銘を与えられる者を見つけ 本や講義や催眠などで その者の頭に考えを吹き込みます 人は限られた枠の中に こころを入れてしまうので 個人でも集団でも 破壊的な考えを受け入れてしまいます 思考は幻に過ぎません そして人はこの思考を通して 行動します 私たちは常に 自分を満足させようとします “これは私の頭が そう望んだから”と あるインドのサハジャ ヨギが アメリカに行きこう言いました “アメリカ人は自分の思考に 踊らされている”と 訳を聞くと 妻にシャツを買うように頼んだところ 彼女はスカートを買ってきました すでにいくつもスカートを 持っているのにまた買ったのです そこでなぜ また買ったのか尋ねると “私の頭が 買うべきだと言ったので”と ですから頭は 様々な間違ったことをさせます 第一に現実と全く 繋がっていないからです そして第二に 全くの幻だからです 人は自分が生み出したものに対して 自分のこころがしたことだと考えますが それは全く間違った考えです 偉大な科学者達は 例えばアインシュタインは言いました “私は相対性理論を発見するのに 疲れ果てました” 科学者は自分の概念を持ち それに基づき研究しますが彼もそうでした でも彼は自分の概念が 間違っていたと気づき 突如庭に出て シャボン玉で 遊んでみようと思い立ちました 子どものように シャボン玉で遊んでいると “突然未知のどこからか” と彼は言っていますが 彼に相対性理論が 下りてきました 多くの科学者はどこからその考えが 来るのか分からないと言います その閃きがどこから来るのか調べる 特別な研究もありますが とてもサハジャ的です ペニシリンでさえ 同じように発見されました 発見されたものは全て 証明によってではなく 思考を操作すること によってでもなく 何か未知の領域から 来るものです 自分達の頭からだと思う 人もいますが ほとんどの者は気づきます ニュートンでさえ“私が意識しない ある領域から来る”と気づきました ヨギは全てを包括する パラマチャイタンニャである 神聖の力の源から それが来ると分かっています 事実感じられて そこにあると分かります しかし最低限でも 思考を超えないといけません 私は常に“瞑想しなさい” と言っています あなたは反応しない 思考を超えた 意識状態にいるべきだからです つまりあなたは目撃者になります 全てのドラマ 全ての場面の目撃者になります すると自分に対して 完全に楽になります そしてこのパラマチャイタンニャの 包括的な力の道具になります ただ目撃します 目撃者です すると目撃するものに対して 反応が起きません それでいて それが何かが分かっています つまり状況全体の現実を 理解できる状態です 例えばあなたが水面にいれば 波に飲み込まれると恐れます しかし船に乗っていれば その波の美しさを眺められます さらに泳げるなら 飛び込んで 溺れそうな者を救うこともできます その状態にいればそうなります リアリゼーションを与えることが できる状態だとなれます 彼らを神聖な力と 繋げることができます そのためには思考を超えた意識状態に どうしたらなれるか知らないといけません ある者は“一瞬だけならなれますが” と言います それはサハジャ ヨガに来ても 頭に コンディショニングが沢山あるからです まずインド人に生まれれば インドと同一視します イギリス人なら イギリスと同一視します でもサハジャ ヨギについて言えることは この思考から 一度でも離れられるなら 自分が住んでいる状況について 批判できるようになります 例えばインド人なら“これがインド人だ インド人はそういうものだ”と イギリス人なら“これがイギリス人だ” と一番批判できます 普通の者は ヨギほど批判できません ヨーロッパ人なら ヨーロッパの者を批判しこう言います “ああ ヨーロッパ人だね 私は良く分かる”と 思考自体を見れるようになります つまり思考が 幻であると見れます すると常に騙そうとする 思考が止まります あなたは物事を 適切に見れるようになります あなたが反応しないからです 反応するのは コンディショニングがあるからです 人は沢山のことに 条件づけされます 例えば ある特定の宗教に 生まれるとかです 現代において宗教は 人間と何の関係があるでしょう どこにも真の宗教は存在しません 金儲けや権力志向になっています それゆえ互いに争っています どの宗教も排他的で 戦っています その理由は頭で“自分の宗教のために 戦うべきだ”と思い込むからです 彼等には内なる宗教がありません 自分達の人生を向上させる 宗教がありません 彼等は最も腐敗した 不道徳な者達かもしれません ただある特定の宗教に 同好会のように属しています そして自分達を何かと同一視します 特定の宗教やカルトに属しているから 何でもする権利があると信じています 思考は人が作り上げたものですが この思考を利用する者がいます 現代において 作り上げられた思考が利用され プラスチックのように普及し 至る所に入り込んでいます このような思考はどんなものにも 人々のこころにも入り込みます ヒトラーはこうして ドイツの若者を手なづけました このような人たちは論理的な理性を 破壊することに成功したのです 愚かさを見通すのに 必要なのは理性で 思考ではありません 思考を通すと 論理ではなくなります ただのあぶくに過ぎない この思考は限られたもので 現実の美しさ 栄光 広がりを理解することはできません この思考はごみの 寄せ集めに過ぎません それをどうにか否定し 自分にこう言い聞かせます “自分の思考を 超えないといけない” “いわゆるこの思考は 私にとって何の役にも立たない” “私を常にコントロール しようとするこの思考は” ”自分で作った時計や コンピューターのようなもので” “いつでもコントロール しようとしている” ですから 気を付けないといけません この思考を創ったのは自分で 自分をコントロールさせることは全くないと 多くの者が自分の思考を コントロールしようとします “さあ思考をコントロールしよう” どうやってコントロール するというのでしょう 思考でですか エゴやコンディショニング によってでしょうか 自分の思考を コントロールする方法はありません それはあなたが作り上げた思考で そこに存在しています 思考でどうにかできると 考えても コントロールできません 思考を超越しないといけません 思考を超えるのに 最も助けになるのが クンダリーニの覚醒です 彼女があなたの 大脳辺縁系を通って泉門を貫き 現実の領域に連れていきます 脳あるいはハートが この包括的な力と繋がるからです 彼女が繋げるのです まさに彼女がします 多くの者が サハジャ ヨガをしますが 瞑想 思考のない意識状態を 確立するのは容易ではありません しかし皆さんが確立すべき 非常に大切な状態です 私は沢山のサハジャ ヨギがいて より深まっていくことに 喜びを感じますが 自分達の思考の混乱にいる限り 向上できません 思考が作り上げるものには 現実性がありません 限界があり 時には反発します 思考で人は“私はこれこれだ” と考えるからです 例えばあなたが ある地位に就くとします 知事であれば自分は知事なので 好きなことができると考えます ですがこの思考はあなたが 知事になったことは分かりません つまりこの役職が あなたを支配しているのであって あなたがその職を 支配しているのではありません 一度このような考えが出てくると とるべきではない 態度をとるようになります サハジャ ヨガにおける リーダーもそうです リーダーになる者は 時折“私はリーダーだ”と考えます 完全な幻です サハジャ ヨガのリーダーの 地位は完全な幻です 理解すべきことですが リーダーになったと知るや否や 思考でいっぱいになります いかに支配し コントロールするかという思考です 人をコントロールしようとするなら 命じているのは思考だと理解すべきです そもそも人をコントロールする 必要がありますか 真のサハジャ ヨギなら そうする必要はありません 操る必要はありません ひとたび意識が思考を超えると…. これはサハジャ ヨギであれば はっきりと理解できます 思考を超えると アテンションを操ることが 大変大切になってきます 操る つまりあえて他のあるものに アテンションを向けると 自分がいかにダイナミックで効果的で その知識に精通しているかに驚くでしょう 自分が望むものに アテンションをおくと すぐさまその論点に その者にその問題に光が差し どう解決し助けられるか 分かるからです サハジャ ヨガで“貴方のアテンションは 沢山の奇跡を起こしてます”と言います ですがあなたのアテンションも 普通の人にはできないことができます あなたのアテンションが まず浄化されていて 次に神聖な力によって 操作されているからです そしてその力が現れています しかし人はサハジャ ヨガにくると 私に涙の手紙を書いてきます “こんなことが起きました 父が病気です 足や手が痛みます”など 身体的な話から 精神的な話まで 時には長い手紙を書いてきます どう読んでよいか分かりません 彼等が反応する段階にいては どうすることもできません 終いにひどくなり サハジャ ヨガを 何か契約のように考えます サハジャヨガにきたから 自分にこれが起こるべきだと 契約を交わしたかのように 得られるのが当然だと思います このような振る舞いは サハジャ ヨギらしくありません サンスクリット語に タタスタという言葉があります とてもいい言葉で説明すると… 適切に訳すことはできませんが タタスタとは 岸に立ち眺める者の意味です これがあなたがあるべき状態です だからといって あなたは 効果がない者というわけではありません あなたは非常に効果的になります そのような者がいれば 沢山のことが起こります 戦争を止められます 平和が広がります 邪悪な者は暴露されます サハジャ ヨガは 大きく作用するものなので 如何なるときもサハジャ ヨギは 互いに争ってはいけません 時には自分自身問題があるのに 他のヨギやリーダーを 批判しているのを見ると驚きます ひとたび思考を超えると 自動的に内省できるようになります そして“自分の思考の どこが悪いのか”見始めます 鏡の前に立ち 目を閉じて “思考さん あなたは 何をしようとしているのですか” 自分自身向き合い 自分を見ることです そして自問します “何をしようとしているのか” そこから一度離れると コントロールできます 私の誕生日を お祝いしてくれて嬉しいです かなり年を取っているようですが そうは思いません 考えないからです 思考を超越しないといけません 常に自分や自分とは全く 関係ないことについて考え 思考を混乱させることは 大変危険なことです 思考を止めるにはサハジャ ヨガでは まず本を読むのをやめるべきです 読み始めると その本から思考を集めるからです 多くの人が他の人の本や 言葉や引用で頭をいっぱいにしています そこに書かれている者達はいません 真実からかけ離れた者達です “誰々がこう言っている” 私がこの本を書いている時も “でもマザー プラトンはこう言っています” “ルソーがこう言ってます”と 私は“言わせておけばいいのです 私が分かっていることを書くのであって” ”私がルソーやプラトンについて 読む必要はないのです” 私が知っていること 人生で目撃したことを 私は書くべきであって 人が主張すること 記述したことを考察するのではありません またこの思考には もう一つ大きな問題があります 活字となって書かれたことが 聖典となり偉大なものとされます 今日キリストもモハメッドや アブラハムもクリシュナもラーマもいませんが 彼等はラーマやクリシュナが 言った言葉を気にかけます ギータではクンダリーニについて 語られていないのに なぜマザーはクンダリーニ について話しているのかと でも彼等は言ったかもしれません ギータを書いたのはクリシュナはではありません キリストは聖書を書いていません モハメッドもコーランを書いていません 書いてあることを 気にかけなくてもいいのです そうではなく彼等が言うように経験しないと 再び生まれないといけません “思考を超えないといけない” とも言っています そうすべきです そして自分自身で見極めるべきです しかし人は同一視します 以前キリスト教徒であった者は キリストについて喜びますし ヒンズー教徒ならクリシュナや ラーマについて喜びます イスラム教徒なら モハメッドやファティマなどでしょう そこから抜け出せません 難しいです 彼等の頭は子どもの頃から“イスラム教徒だ キリスト教徒だ”と教えられた通りに信じます 他の宗教に生まれていればどうなるでしょう 何か違うものを信じていたでしょう この思考はあなたの頭に植え付けられいて 全く自由が利きません これらのコンディショニングに縛られます サハジャ ヨギの中でも コンディショニングで 良いか悪いか判断します 自分自身で見極めるべきです 例えばグル ナナカについて話せば シーク教の者は喜ぶでしょうが キリストのことを話せば 喜びません プーナでキリストの話をすれば 人は“改宗させようとしている”と言うでしょう ロンドンでシュリ クリシュナの話をすれば “ヒンズー教徒に改宗させようとしている”と ですからこの同一視は 生まれた時から強くあります そのような考えを 未だ持っていて自由ではありません だからと言って彼らを 信じてはいけないという意味ではありません 彼らは偉大で 私たちに 大いなる敬意と理解を持っていました しかしまず自身を自由にすべきです 彼等を知ることです 思考は自由でないといけません あなたの頭に植え付けられたもの 真意を見れないといけません 楽しめないからです 部分的にしか楽しめません なので自由な人間であることです サハジャ ヨガは あなたに完全な自由を与えます また完全な解放を与えます すると他の者の自由に 敬意を払えます そして自由とは何かを理解します そうでないなら サハジャ ヨガは意味がありません あなたにある全てのコンディショニングが 取り除かれるように作用するものだからです 私たちにある 二番目の敵はミスターエゴです これもまた頭痛の種です エゴが膨れ上ががり 多くの国に広がっています これらの膨らみが 一度膨れ上がると また大きくなるのは 簡単なことです しかし膨れ上がることが なければ次は難しくなります このエゴは 異なる側面からやってきます 驚くでしょうが 私たちのチャクラの欠陥から来ます 例えばお金に非常に重きを おいている者がいるとします “お金が得られないなら サハジャ ヨガをする意味はあるのか”と お金が何より重要です 私たちは確かに 金銭重視の世界にいますが 人を愚かにするような お金には意味がありません お金重視の 裕福と言われている国 スカンジナビアの国やスイスは 金儲けのためなら どんな手を使おうと構いません でもお金はしっかり稼ぎます そして若者は自殺をし さらにそれを競い合っています 彼等は大変不幸せなのです つまりお金で幸せにはなれません 常にお金のことしか頭になければ あなたはサハジャ ヨギになれません お金は愛を表すためだけにあります 例えば店に行って 良いものを見つけたとすると “あの人にこれを あげれば喜ぶだろう”と考えます それは大変優しい気持ちです ”これをあの人にあげよう きっと必要だろう” あなたの頭が違う方に働けば つまり思考を超えた状態なら 何か歓びを与えるもの 芸術的なもの 美しいもの 役に立つものをその人のために買うでしょう あなたは寛容さに満ちた心持ちで 寛容さを楽しみ 常に人に歓びを与えられるものに アテンションが向けられるでしょう 高価なものでなくとも 何か細やかなもの お金があるなら 人に贈れる何か 愛 感謝 シュラッダを 表現できる物を買う方が良いです 驚くことに人は苦行者などに お金を与えたりしますが 彼等のシュラッダを満たすために 与えなければと思っているようです そして大枚をはたきます 全く無意味です 価値を全く理解していません 彼等にとってお金はお金に過ぎません 現代においてエゴの最悪の 産物はお金でしょう お金持ちや実業家は 個別に私と話したがります “マザー 是非貴方にお会いしたい” でも彼等は全くの役立たずです “このことで大変な損失を受けました 助けてください” 私は彼等に何も言いませんが 彼等は“貴方の恩恵により 取り戻せました”と言います そうかもしれません ですが愚かです 老子はこのように記述しています “揚子江の両側は大変美しいが それに見とれていると大海にたどり着けない”と 同じように 人が飛行機に乗る時も 途中で良いものを見つけて そこに足を留めれば飛行機に乗れません ですから頭を使うことで 副作用が起きます つまりアテンションを間違ったものに向ければ 無駄なエネルギーを使うことになります 結局は満足できません 一般的に欲求は満たされないものです それはあなたが与える愛 受け取る愛です それはある目的や 下心のある愛ではありません 他者に感じる愛 自身の内にある純粋な愛です それは神聖からの 最も素晴らしい贈り物です 他の全ては意味がありません 毎日出てくる欲求です 今日車を欲しくなって買い 次に家が欲しくて買います すると手に入れた車はどうでもいいのです 家を手に入れたとしても満足しません また別の物を欲しがります あなたを満足させるものは何でしょう この純粋な愛 真の愛です 他の者に感じる そして他の者があなたに感じる愛です 私たちには沢山のコンディショニング エゴがあります 私たちの国 特にインドにはです 妻を支配することは 最も大きなエゴです そのせいで女性や妻や 子ども達が苦しめられます 彼等がただ “自分は男だ”と思うからです そこから歓びは 全く得られません 決して歓びを感じることはありません 他者を支配して歓びは感じられません 歓びは愛と愛情と労わり を通してのみ感じられます なぜなら歓びにそのような 性質があるからです 歓びは支配や要求ではありません それは歓びを感じる者の 証ではありません 歓びに満ちた者とは 労わることができる 愛深い 優しい関係を楽しむ者です 北インドの男性に特に見られますが 人はイスラム教の影響と言いますが 北部では男性は非常に 妻に対し支配的です そして妻を大変けなします ですので今では 女性も非常に支配的になっています 作用には反作用があるものですが この反応自体 間違った考えです この反応は純粋の愛の感情に 慈愛の大海に溶け込ませないといけません 例えばデリーの道端には多くの者 子どもが乞食をしています 私が抱く感情はその者に対して 叱るものでも 怒るものでもありません 彼等は騙したり奪おうとしている かもしれませんが 誰だって騙します 同じです 私の中に組み込まれている 慈愛はこうです “土地を手に入れ 孤児のための 施設を作って助けてあげよう” “この惨めさや貧困の池から 沢山の蓮の花が咲くかもしれない” でもこの気持ちは コレクティブでないといけません それならデリーの問題を 解決できるでしょう 社会福祉事業に 頼るというのではありません ある社会福祉事業を知っていますが 単なるエゴを甘やかす事業でしかありません 社会福祉と関係ありません いい加減ですし これらの人々を世話したいという 彼等のアテンションには深さがありません ですから私たちは 愛と慈愛の大いなる気持ちでできます 私たち皆でできます これは私の望みの一つです あなた方の望みであるならうまくいきます とても大切なことです 彼等も人間で私たちは彼等の 面倒を見ないといけません しかしそのために こう考えてはいけません “私が会計係をする 会長をする” そのような発想は 頭から取り除かれるべきです でないと自由ではありません 自由ではありません 面白い冗談があります ある村人が大臣に会いに行くと そこにいた秘書が人々と話していました すると秘書は怒り始めました 村人は“あなたは誰ですか” 秘書は“知らないのですか” “私はPA(個人秘書)です” “ああPA(お父ちゃん)ね” “つまり酔っぱらっているのですね では話すことはありません” エゴが大きい人は 酔っ払いのような者です 時には気が狂ったような者です 会う時は押し竿を 持っていないといけないほどです 平和賞を受賞した者の中にも 押し竿を持って話さないといけない者もいます 猫や豹のように 飛びかかってくるかもしれません 平和賞をなぜ 受賞できたか分かりません さて平和は 私たち自身の内にあるものです この平穏は維持され 内省され 現れるものでないといけません 私たちは平穏でしょうか それとも反応していますか 反応ばかりしているなら 平穏ではありません でも中には“私は平穏ですが 反応しないといけません”と 全く平穏ではありません ただ自分自身に真向から向き合いなさい 自分自身で見てみなさい 自分が平穏なら この平穏が周りに広がり 他者を助けます 彼らに身体的 精神的 感情的 そしてスピリチュアルな平穏を与えます あなた方にはサハジャ ヨガにきて 大いなる責任があります ヨギであることは 単なる証明書でも 私のバッジをつけることでもありません 女性にも理解してもらいたいことです 女性を見ると心配事と言えば 自分の子どもや夫 仕事のことについてで 他の者 周りの者 については心配しません 女性もサハジャの生き方を しないといけません それによって他の者に 愛やアテンションを広げ いかに人を喜ばせられるかみます かつて西洋の国々では そうではありませんでした 報酬や目的なしに 他者を喜ばすことを知らなかったと思います 誰かに贈り物をすれば 彼等は“あなたは何が欲しいの” “コーヒーでも飲む” とすぐさま尋ねるでしょう 彼等には愛の表現について 理解できません しかしこの考えは変わりました サハジャ ヨギがいるからです ヨギは別者です 驚くことに以前人は 弱いから贈り物をすると思っていました ですがこれらの考えは 西洋で変わりました そして私たちも物をあげたり 約束をすることで 人をコントロールできるという 彼等の愚かな考えをすべきではありません 私たちは自分自身を コントロールしないといけません そのコントロールはあなたが 自分の頭にコントロールされなければできます そのコントロールは完全に自由です 例えば飛行機も完ぺきに作られていたら 飛ぶことができます 同じようにあなたが 完全なサハジャ ヨギなら いかなる問題や状況でも どんな者でも対処できます 西洋には沢山のサハジャヨギがいます 彼等は“エゴが大きくなるので 活動したくありません” エゴの膨らみが大きすぎて 何か活動すればさらに膨らむと考えるのです そうではありません それは愛です あなたは愛のために働いています 愛の大海があなたの内にあります それなしで何ができますか これは全てにおいて作用すべきです あなたの家族であろうと 町であろうと 全世界であろうとです 真実である愛を信じる 新しい世代の人達を創らないといけません 愛なしには真実は持てません 誰かを愛するとき あなたはその人の全てを知るからです 同じように自国を愛するとき その国の全てを知ります しかしまず 愛さないといけません なぜ人は問題を抱えるのでしょう 自国を愛さないからです 自国を愛するなら あなたの国の 真髄が何で 問題は何かが分かります その強い一体感自体が作用します 結局は神聖と繋がっているからです そしてその中で 現代における破壊的な そして問題となることが 何かを感じるべきです この誕生日のお祝いと 私への優しさに感謝します あなた方は私にとって この花のようです 常に私やあなた方を 喜ばせようとしている この美しい神聖が香る 花のように私の前にいます あなた方自身の価値を理解し 作用させることを願っています 神の祝福がありますように