Shri Krishna Puja Nirmal Temple, Cabella Ligure (Italy)

Shri Krishna Puja. Cabella Ligure (Italy), 16 August 1998.
今日 私たちは シュリ クリシュナ プージャ をします シュリ クリシュナの 力において 大切なことは あなたに 目撃する状態を 与えてくれることです なぜなら 今日が カリ ユガの時代にあり 価値観における 完全な混乱 あらゆる混乱が 大変複雑な状況を 生み出しているからです 目撃する状態は 瞑想を通してのみ 可能です 思考のない意識状態に 到達します それらは 合わさったものです 目撃する状態とは あなたがただ 反応しないという状態です 反応すれば 問題は起こります 容易に分かりますが 私たちはエゴや コンディショニングで反応しています そうでなければ 何の反応もありません 例えば ここに 美しい絨毯があるとします 私にエゴがあれば それを見るなり どこからそれを 手に入れたのか それにいくら払ったのか 考え始めます これは最初の反応です それ以上反応すると 怒りが沸くかもしれません なぜすばらしい絨毯を置くのか ここに置く必要はあるのか このように 次から次へと出てきます コンディショニングで 私が見るとすると この色はクリシュナ プージャに適していない このプージャのために 他の色にすべきだったと言うでしょう 次から次へと このようなことが起こります つまり コンディショニングが 私たちの中にあります 私たちの コンディショニングの問題は 全て本当に ひどいものです 例えば “人種差別”です アメリカで 人種差別があります 強く感じられます 彼らは口にはしませんが イタリアから行けば 感じます インドから行っても また感じられます なぜこのような 人種差別があるのでしょう 理由は何でしょう 異なる共同体や 表面的な違いだけの 肌の色に対して なぜこのような ひどい憎しみで 反応するのでしょうか 合理的に説明すると “ああ 神よ” “彼らは全く 役立たずである”とか “私たちの国にやってきて 私たちを” “困らせている”と 言えますが 全てコンディショニングです 彼らが 移民のことを話すなら アメリカ人は皆 移民である と解らなければいけません アメリカは決して 彼らの国ではなかったのです 彼らが北米先住民を 皆追い出し 土地を奪い 平然と アメリカの領主となったのです その反応は 白人でない者は誰でも 誰でも非難され 苦しむべきだ というものでした もとから暴力的なら 暴力をする コンディショニングが出てきます そして互いに 殺し始めます 彼らは冷酷にも 多くの人を殺しました どの国においても 彼らには権利があり 皆殺しにし 自分の土地ではないものでも 奪って良いと 考えているのです 土地は 誰のものでもありません その国に属さない者が そこにいる人たちを 追い出す権利は どの国においてもありません 昨日は インドの独立記念日でした そして 私は 自分たちの国旗が 上がって 英国の国旗が 降りていくのを見ました それは苦闘の末 人々のあまりの 苦しみを経て 起こったことです なぜなら 彼らは インドにうまく上陸し 支配者になったからです ですからこれも 一種のコンディショニングです それは 集合性をおびています 誰の国でも入り込み そこの者達を追い出し その場所を支配し 主人になるのです それはまるで 誰かの家に行き そこに住む者達を 追い出し 自分が家主として うまく居座るのと同じです 彼らは恐らく より知的であるか悪賢いのです その悪賢さで 白人が黒人を 支配できると思うなら 目撃する状態は 発達することができません ですから このような コンディショニングは 疫病のようなもので ある国から別の国へ渡り 自分たちの方が 勝っていて 彼らの方が劣っている と感じさせます またその人たちも 同等であるのに このような地位や状況を 受け入れてしまいます 今回はアメリカ人が 主催者なので アメリカの例を挙げます クリシュナが 統治者だからです クリシュナは アメリカの統治者です 彼は色黒で 肌の色は黒い方でした 彼が支配するその国で もう一つ 気づくべきことがあります 彼らは気づいていません もし全ての黒人や 全てのアジア系の者が 国から出て行ったら 彼らはどうなるでしょう スポーツの大半は 黒人が活躍していて アメリカのスポーツを見るなら 99%は黒人です 音楽を見ても黒人です 色が黒いけれども・・・ 悪いことではなく 白人がいるように 黒人もいるのです 彼らには白人にはない 素晴らしい声があります どんな白人でも競うことが できない程 素晴らしく歌います 肌の色に 完全な公平さがあります すべての アジア系の人を 除くとしたら すべての 医師 看護師 建築家 すべての会計士は 消えてしまうでしょう 誰が残るというのでしょう 肌の色は あなたの 知性や価値観 あなたのスピリットと 何も関係がないことを 理解しないといけません スピリチュアリティを 得る為にここにいます スピリットは 肌の色を理解することは できません 上辺だけのものだからです 肌の色のために 人を非難することは 大変残酷です 今 同じ反応が 起こっています どの行動にも 反応があります 何が起こっているか というと 黒人が 反応しているのです 反応していて その反応は大変危険です 毎日のように ひどく反応が 起こっています アメリカだけでなく 世界中でです 支配に対し 立ちあがって 反応しないといけない と考えています 異なる色の人種 少数のアジア系の人 ほとんどは黒人ですが 自国でグループを結成し 互いの喉を 切り合っています 残酷な殺しを テレビで見たことがありますが 肌の色の違いは 私にはよく解りません グループを結成し グループで殺しにいったり 殺しにきたりします カウラヴァスと バンダバスではありません 二種類の人ではないのです 全く逆です ネガティブなものと ポジティブなものではありません 白人であろうと黒人であろうと それらは皆ネガティブで 互いに口論し合い 戦い始めます この暴力は 大変大きくなっています 暴力が自分たちを表現する 唯一の武器であるかのようです どこかで 何かが起これば 爆弾を爆発させ 多くの罪のない人々を 殺しています それは 大変 罪深いことです 小さな暴力でさえ 罪深く シュリ クリシュナの目から見ると このような暴力は 完全に 罰せられるべきものです これはエゴから来ます 人は何らかの 党派に属していて 別の党派を殺すことが できると考えます そのようなおかしな 考えが入ってきます 他の者を殺す権利がある と決めつけます ある者はこれが憎しみから 来るというかもしれませんが 憎しみは エゴから来るものです エゴが作用し始めると 憎しみのようなものを 全て集めてしまいます 支配欲 怒り 暴力 これらすべては 彼らを盲目にする エゴから来ます 暴力を振るったり 人を憎んだり 他の者を殺す 必要もないのに エゴがそこにあるので 盲目的になります “マザー どうやって エゴは起こるのですか” もちろん ほとんどは 反応することで起こります あるいは コンディショニングによってです 子供の時分 これらの人を憎むべきだと 彼らは間違った者達で 悪い者達だと教われば 憎むようになります 大人になると その憎しみを表し始めます サボテンのように 大きくなり 他の者を殺します 人間の このような振る舞いは 正当化することは できません 人は人間的な資質を 持たなければいけません そして それは ただ目撃すること 反応しないことを学べば 可能になります 例えば あなたは 二羽の雄鶏が戦っているのを 見るのを楽しみます 二羽の雄鶏の戦いで 一羽が死ねばとても喜びます あたかも死んだ鶏が あなたの両親を殺したかのようです とても驚きます スペインでは闘牛が まだ続いています 毎年六頭戦い 闘牛場にはここにいるより 十倍の人が来ます 常に満席です 女性でさえ 闘牛を楽しみ 闘牛が殺されなければ 道に放し人を殺させるのです このような 暴力的な快楽が 人々の心に 入り込んでいるのです 博愛主義を唱え 平和を唱え 歓びについて語る者達が このような暴力的な行動を まだ楽しんでいるのを見るのは 大変悲しいことです 彼らは実際やっているか それらを見たがっているかのどちらかです 残酷な暴力性を帯びた 映画を見に映画館に行き 人々はそれを楽しみます そのような映画が 次々と作られています 目撃する状態に入れば 目撃する状態に あなたがいれば そのようなことが 起こったとしても 静まるでしょう あなたが目撃する状態の レベルでいるなら 目の前で事故は 起こらないでしょう 事故が起こったとしても あなたは人を救うことが できるでしょうし 大変積極的に人を 助けることができます これは小さなことですが 大きな規模でも 何か素晴らしいことが できるでしょう 思い出しますが 私がまだ若い頃 私たちは大臣の 近くに住んでいて ある時 ストがあり 彼らはマハラシュトラ州の独立を 主張していました そこには警察が立っていて 治安当局の大臣の命令で そこにいた皆や道行く人に 発砲し始めたのです 射撃のゲームを 楽しんでいるようでした 私はこれを目の当たりにして 耐えきれずそこに行き 警察に止めるよう 頼みました すると 驚くことに 止めたのです 傷ついた人々を家に運び 弾を取り出し救急車を呼び 人々を助けました ひとつ言えることは 私が目撃する状態にいた ということです あなたは 恐れのない者になります 一度 あなたが 目撃する状態にいることを学べば 全く恐れはありません あなたが 目撃していない時は 動揺したり 憤りを感じたり 興奮したりするからです 間違った人たちの 仲間になるかもしれません しかし あなたが 目撃する状態でいれば それ自体が力となります そして目撃することが 他の者の多くの困難を 乗り越える助けとなります 聖人についての 中国の話があります ある王様が彼のところに 雄鶏を持ってきて 勝てるように仕込むよう 頼みました 彼は承知し 一ヶ月 預かることにしました 闘鶏が 始まると 雄鶏が 様々な所から出てきて 戦いが始まりました この雄鶏はただ立ち上がり 目撃し始めたのです ただ目撃していました 他の雄鶏達は 恐れを抱きました 他の雄鶏達はこの雄鶏が微動だにせず ただ目撃していることが理解できなかったのです。彼はただ立っているだけです。何もせずにいるだけです 闘鶏場から皆消え 彼が勝者となりました これが非暴力をもたらす 最善の方法でしょう 暴力的なところに出向き 起きている全てに向き合ってじっと立って見ます すると その目撃する行為が そこで起こっている 暴力的なことを抑えるでしょう しかし 目撃する状態とは 精神的な状態ではありません それはスピリチュアルな 上昇の状態です 目撃者となります 目撃する状態を得る 最善の方法は 誰も批判しない ということです 常に他の者を 批判する人がいます 彼らは自分自身を 批判できません ですから あまりにも他の者を批判し始めると 自分自身のことでさえ何がおかしいのか 他の者に対してどのように 悪いことをしているのか見ることができません なぜなら 他の者を批判する 権利があると思っているからです それに 批判することを 大変楽しんでいます 実際 批判することは 何もありません ただ自分自身を見てみなさい それだけです あなたの権利です あなたには他の者や他のことを 批判する権利は全くありません しかしある者は 批判しなければ 事はそのまま続いて 決して終わらないだろうと思うのです そうではありません そのことを一度自分自身で見ます あなたのアテンションを見ます アテンション自体 すでに啓蒙されています その啓蒙されたアテンションで あなたは見ることができます 無意味なことを 止めることができます しかし私たちは 常に自分達が何か 偉いという意識を持っています そしてこれをしなければいけない あれをしなければいけないと考えます このような状況で 何が起こるかというと あなたがまた 問題となるということです 何ができますか 何もできません あなたができることは 目撃することです 見ること ただあるがままを見ることで あなたは大変違った状態に 発展できます まず初めに 目撃できる人は おもしろいことに 忘れることが少ないです 彼らが見るものすべてを 写真のように捉えるからです 色や組み合わせを 言うことができます 彼らが見るものすべて まるで写真のように頭に残ります そして その記憶は失われません 自分が見たものを 正確に言うことができます一方あなたがすべてにおいて反応するなら あなたの記憶は ひどいものになります おまけに人々は反応するという ことに対して癖になっています 私が知っている 一人の男性は 反応する癖がありました 車で一緒でしたが 彼は 広告を どの店の名前 人の名前をすべて 読んでいました これは何で あれは誰でと話していました たくさんしゃべっている この男性を見て 彼はどうなるのかと思いました 常に反応する者は忘れがちに 大変忘れがちになります しかし このような人は それだけではありません 彼らが集合体になると 大変危険になります なぜならそのような性質で 何かをするわけですから 彼らは何かをしないといけないと思うのです つまりある目的で一緒になっています 彼ら全員がつくりあげたある反応で 一緒になっているとも言えるでしょう 小さなことでも 大きなことでも このような行動にでる者達は 多くの者を集めることができ 他の者に どんな害も与えられるのです ヒットラーのことが 目に浮かびます 九年間もこの男は ユダヤ人のどこが間違っているのかと見ていました 彼はドイツ人が 何をしているのか 彼らの社会のどこが おかしいのかは見ません その当時 社会も大変ひどかったのです なぜなら様々な 淫らな行為があったからです 彼はユダヤ人が このようである 彼らはこれをしてお金を取り お金を貸すといった 様々なことを 書き留めていました そういったことを 頭に入れていき その結果 こういった人々はドイツから出ていくべきだ と考えるに至ったのです しかし その後 彼はユダヤ人がドイツから出ていっても なお彼らは繁栄するだろうと考え それなら殺してはどうか と考えました つまり 映画ですら 見られないような類のことを ヒットラーは行いましたし 彼は何のためらいもなく まるでそれが大いに 楽しみであるか 彼の責務であるかのように 行いました どうやったら何千もの ユダヤ人を殺害するような 責務を負えるのでしょう […]