Diwali Puja, Expression of Love

(Italy)

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Diwali Puja, Novi Ligure, Italy, October 25th, 1998

今日ディワリ プージャのために 皆さんに会えて嬉しいです ポルトガルで行う予定でしたが ここになりました ディワリ プージャは小さなものですが 極めて意義あるプージャです まず ディワリでは初日に 家族のための何かを買います 何か料理に使うものや 奥さんに宝飾品などです その日が主婦の日で 主婦に敬意を表す日だからです その結果 インドでは 主婦がとても尊敬されています 実際は 世界中で 尊敬されています 政府の祝賀会でも 婦人がどこに座るかが 大切にされます 今日先進国においても 特別な尊敬を集めます 主婦は学もなく 素朴で 現代的ではないかもしれません ロンドンで プログラムをした際 私たち政府の代表が 招かれましたが 団長の奥さんが 見つかりませんでした “席はあるのに 彼女はどこでしょう” と訊かれました “分かりません この辺りにいるのでは” 会が始まる前に化粧室に行ったら そこで座っていて驚きました “何をしているの 皆待っていますよ” 彼女は“座っているように 言われました” 私は外に行き “あそこに 座っていますよ 呼んできたら” “あれが奥さんですか?” “もちろんです” “事務員かと思いました” “なぜそう思ったの?” この女性はモダンな スリットの入ったドレスを着ていたので 秘書官だろうと 思われたわけです なので待合室で 待つよう言われました 主婦であれば キチンと立派な服装をすべきで 事務員や秘書のような 格好をするべきではありません 主婦が最高位だからです ですが彼女はパーマをかけて お金をかけて着飾ってきました なのに可哀想に 待合室で待たされることに なってしまうのです 主婦とは 家の威厳なのです それどころか 国の文化や国自身を表す存在です その国の文化を 表すのです 最近のインド映画では おかしな格好をしていますが そんな格好をした主婦は 見たことがありません 映画だけです 社会が強固で 主婦はキチンとすべきと されるからです キチンと 威厳を保ち 品のある振る舞いをしなければなりません 逆にインドのシャハストリ首相 の例があります 妻はシャハストリさんが投獄されたので 学校にいけず 学がない人でした 素朴な 普通の女性でしたが フランスへ行きました 当時フランスの大統領はド・ゴールさんで 奥さんも素朴な人だったのです シャハストリさんは妻に“親友の ド・ゴール婦人と別れる時泣かないで” 彼女たちはお互いにフランス語も ヒンディー語も知らないのに 二人は大親友になったのです 結局旦那さんに泣かないように と言われたけれども 結局 帰り際に 泣きだしました シャハストリさんは “泣かないように言ったのに” 奥さんは “彼女が先に泣くもんだから” そうやって主婦同士で分かり合い 連帯ができていったのです 共通の問題があるのです 子どもや夫を丸々世話しているからです 主婦の問題は 同じだということです 主婦は小さなことを よく知っています 少なくともインドの男性は何も知りません 地に足がついてないと思います 女性のほうが理性的で 細かいことにも良く気づいています 面白いことに 男性は日常の問題ごとに 関わっていないため 可笑しな 間違いをしたりするのです 一方では 主婦は生活に関わり 他方では 家族や子どもを世話します さらに社会に対しても 責任があります 世間を維持しなければなりません 女性に分別があり 成熟した国では 社会や家庭 子ども達が 極めて良くなるのは驚きです この意味でインドは 良い国 良い社会です これはグルハ ラクシュミ である主婦の 文化における 重要な働きのおかげなのです これは インドではよく見られ 主婦が とても尊敬されています なのでサハジャの文化でも 主婦を尊敬することが最も大切です でもそれは夫を支配して 喧嘩したり 困らせるようなことを 意味しません 社会において主婦が 重要な役割であるということです 彼女は女神のように 扱われるのです でも 彼女も 女神に値すべきです 彼女をドアマットのように扱えば 子どもたちは尊敬しないでしょう 適切に尊敬しなければ 子どもたちも母親を尊敬せず 子どもへの影響力がなくなるでしょう 母親が尊敬されないと 子どもたちは我がままで 支配的で怒りっぽく 協調性のない子になってしまいます なので今日 13日目の ダンテラスの日には 主婦に何かを プレゼントするべきです 少なくともポットか 何かキッチンで 使う物をプレゼントして 敬意を表すべきです 母親が尊敬されない家庭では 子どもが問題を起こし 結婚時など家族の皆が 大変な思いをします 男性は妻を尊敬しなかったことが 間違いだと気づくべきです 子どもの前で怒鳴ったり 敬意に欠けた態度を見せれば 子どもは母親を 尊敬しません 何も欲しがらずに あなたや その家族を世話している女性に そんなことをするのは 罪なことです 女性がどれほど問題を起こすかは 政治を見れば良いのです 政治に参入すれば 男性たちを皆おかしくします しかも一人の女性の 特有の考えによってです 彼女たちの領域は 家庭にあるからです しかも一人の女性の 特有の考えによってです 彼女たちの領域は 家庭にあるからです 女性が家庭で尊敬されないと 外へ出て 突飛な振る舞いをします 忍耐も苦労も多いけれど 家庭で主婦は尊敬されるべきです それがとても大切な グルハ ラクシュミのメッセージです 2日目はナラカスラという ひどい悪魔が成敗された日です これはシャクティの力によって なされました ナラカスラは多くの人を苦しめ ずる賢いことをたくさん行ってきました とても狡猾でずる賢く 誰も殺せませんでした そこで特別な力が地上に降りてきて ナラカスラを倒したのです ナラカスラの成敗は 4日目でした その際に地獄の門が 閉じたとされます なので人はその日は 早朝にシャワーをしますが 地獄の門が開いている時に 水浴びは良くないと思います むしろ 彼が地獄に 落とされるまで寝ていなさい ナラカとは地獄(奈落)を意味し 彼がおびき出されて殺されます 最後が一番良い日で シュリ ラーマと弟のバラットの再会です シュリ ラーマは父親の命で 14年間森に追放されていました ある意味 投獄されていたようなもので 城での生活から森での大変な生活に 妻や弟と共に追放されたのです ラーマーヤナの話は ご存じですね 城で生まれ育った子どもが 王になることなく 酷い生活を強いられて あんまりです でもシータが同行して 彼を支えました でも結局シータすらも ラヴァナに誘拐されてしまいます そしてラーマはラヴァナと戦い 殺して妻を取り戻すのです 都アヨッディヤに帰還したときは 大きなお祝いでした 弟のバラットは 兄が大好きで 国を治めるにも 兄のサンダルウッドのサンダルをおいて 統治したと言われています それを王座におき 統治しました バラットミレンといわれる バラットとシュリ ラーマの再会が祝われ シュリ ラーマが 王として戴冠されます 何千年も前の古い話です この祝祭は意味深く 善き王が王座につき統治する という意味があります 彼の経験した不正や残虐な 行いが全て終わるという意味で ディワリは重要です 最終日は 女神ラクシュミを崇拝します 彼女の恩恵でこれら全ての出会いが 可能になったからです 9種の色々なラクシュミが私達に 宿っていると以前お伝えしました ラクシュミ プージャでは ラクシュミ自身を崇拝します 金銭ではありません 金銭の崇拝は間違っています 私達のもつ金銭や富をラクシュミとして 注意深く使うべきだという意味です 彼女は流動的なので お金も滑り落ちることがあるからです 反対に ケチになってもいけません ラクシュミは けちな人を好みません でもお金を使うなら 正しく使うべきです ラクシュミは原初の海が 撹拌された際に創られ 4つの手を持っています ひとつは与えるためです 彼女は気前よく与えます そして別の手では祝福します 片方で与え もう片方で祝福します 大切なのは 誰かに何かをあげるときに その何かというより 祝福を与えることです 金銭だけでなく 祝福を与えるのです 残りの2つの手には ピンク色の蓮の花を持っています ピンクは愛の色で お金を持つ人は 愛に満ちた家を持つべきです 客人は誰であれ 尊敬されるべきです 神のように 扱われるべきです インドでは外国人は 神のような存在と考えられています ここでは悪く捉われますが インドでは尊敬を表します 神のようです あなた達もインドで受けた 歓待を覚えていますね これがインドの文化の基盤で 客人であれば 神のように扱われるのです 別の国なら 全くの反対で 外国人なら話すことも 憚れると思われます どうしてそんなメンタリティに なったのかわかりません でもサハジャ ヨギ達は 違います 彼らはお客を歓待し 良く面倒を見て 美しく連帯していると聞きます これが蓮の花の意味で 愛に満ちた家というものです 身体に刺のある カブトムシですら 蓮に止まると内部に招き入れられ 心地よく眠ります カブトムシすら 邪魔されません 富める者は このように人を扱うべきです でも世間では金持ちは カブトムシのようです 刺だらけで人を侮辱したり 自分のことばかり考えています ラクシュミとしての金銭を得ることで 悪魔的になるというのが驚きです 彼らが他人をどう扱うかは 更にそれ以下です これらが女神の姿の意味です なによりも蓮の花に立っています 誰にも圧力をかけません 自らで存在します 誰にもプレッシャーをかけません 自らの脚で立ち 威厳をもって 自分の体重をバランスしています これこそが ラクシュミのあるべき姿です この作用で経済やその他の 危機に陥った国が発展していくのです 人民が楽しむでしょう お金を楽しむのでなく いわゆるデザイナーズブランドなどの 高いものを持とうと思うのは 攻撃的な考えです デザイナー達は ラクシュミに反しています あなた達のお金を巻き上げて 無駄にさせるのです 人は異性関係や飲酒といった 無駄な習慣に走ります ラクシュミの本来の恩恵と いえるようなことはしません なので誰かに何かを贈るときには 心から贈るべきで それがラクシュミの プラサードになるべきです でなければ誰かに プレゼントを贈る意味がありません とても狭い了見で 贈り物をする人がいます それでも 贈ろうとするのです 日本では 大きな贈り物をします ところが開けていくうちに 結局 マッチ箱サイズになったりします そのマッチ箱の中に 2つのマッチ人形の ようなものが入っています “何でこんなに大きな包装を するんですか”と驚きました でもとても素朴な民族です 日本に行った時には 雨の日でも行った先々で 贈り物を頂きました “何故こんなにくれるのでしょう” と尋ねました “彼らはあなたが 王族と思っています” “何でそう思うの?” “あなたが美容室に 行かないからです” “本当に?” “日本の皇族は美容室に 行かないんです” “それは知らなかった” “それであなたが 王族だと思ったんですよ” 彼らが美容に関して どんな考えを持っていたか 想像してみてください インドでは女性はキチンと 髪をとかしていなければなりません 彼女はヒッピーみたい ではいけません ここにはまだヒッピーを信じている人がいて そういった髪型をしています 女性は社会で 大きな役割を果たします 着るものや行く場所など 子どもは父親よりも母親から 影響を受けます 父親の方が影響力がある 場合もありますが 洗練されたものは 全て母親から受け継ぎます なので衣服や生活スタイルの 理解は女性によります ロンドンにいるインド人のヨギニに 今の流行を訊いたら マラティ語で “ジプレヤ”と答えました 前髪をこうすることです インドでは母親に “ジプレヤをどけなさい”と言われます 前髪をこう被せていると 斜視になるからです でも前髪を目まで伸ばすのが 流行っているようです これが流行りです 今は皆 品のある人でも そうしていて そうしないのは サッチャーさんぐらいです どう逃れたのか わかりませんが 女性は誰かの真似をする 必要はありません それは卑屈です 流行っているからといって 何故するのでしょう 流行を作る人の術中にはまるのは 馬鹿げたことで あなたが依存的だからです 自分の個性や 理解の上に立脚しなさい 自分の見かけを 台無しにするのでなく 威厳と理解をもって 良くしていくようにしなさい これは女性に より当てはまります ラクシュミ プージャは 女性向きです 女性がいかにあるべきかに 関するものです 私は女性は男性よりずっと 威厳を持ちなさいといつも言ってきました 男性は馬鹿かもしれませんが いいのです 女性が威厳と分別を 持たなければいけないのです よくご存知のように 男性はよく解っていないのです 可哀想に 大学の勉強しかわかりません 実際的なことになると 何も解っていません だからそれで 気を悪くする必要もありません 男性達が“自分はあれもこれも 知ってる”と言いながら 何も知らずに間違えるのを 見ていると面白いでしょう でも男性は“知りません”とは言いません そいいう性質だからいいのです それは別に何か意味があるわけではなく 単に分かってないだけだから 芸術や美的センスについても 男性はどこか抜けていて 大して知っていると思えません 可哀想に ある種の服を手にすると ずっとそれで通します いつも同じようなスタイルの服を着ていて 他に欲しがりません でも女性は芸術的です インド女性がサリーをやめて ジーンズを履いたら農村部はどうなるでしょう 内職でサリーを作ったりして 生計を立てているからです なのでインドにそういった 洋服を紹介するのは無理です 学校ではあっても 結局は好きなサリーに戻るでしょう サリーはこれからも 続いていくでしょう それぞれが個性的で とても美しいです 芸術やアートに関しては やはり女性の方が優れています 男性が分からないのは 構いませんが 女性は家の中を 完全に綺麗にするべきです 蓮の花のように 居心地よくしなさい でも家事に関して独裁的な ヒットラーのような女性もいます “こうでなければダメ”と 男性の生活を惨めにします 自分の家でいつも新聞を 持ち歩く男性がいました “こうでなければダメ”と 男性の生活を惨めにします 自分の家でいつも新聞を 持ち歩く男性がいました なぜ持ち歩くのか 尋ねると “新聞を敷いて座るんです” “何故?” “ちょっと汚しただけで 妻に怒られるから” “どうして?” “彼女は何かが汚れるのが 嫌いなんです” “とても細かいので 新聞を敷いて座ります” “やり過ぎです” と言いました 彼は“あなたもやったほうが いいですよ”というのです とにかくやかましくて 病院よりひどく そんな家に住むのは 無理です このようにとても細かく 几帳面な女性もいるのです でも普通女性は親切で 家族や皆にもとても好意的です これはとても大事なことで 私には大家族がいて 皆が兄弟で 一人ひとりが大切なのです だれもが違った香りの個性的な 人格を持っていて 素晴らしいです 違いにもかかわらず 皆がお互い好意的に 楽しんでいるのが素晴らしいです ロシアでは特に女性が 非常に気立てがよく かつユーモアがあって 何でも楽しんでいます 驚いたのは彼らに 二千人分の贈り物を持って行ったら 一万六千人もいたのです どうやって 贈り物をあげましょう すると一人の女性が ネックレスを外して “これをあげましょう イヤリングもあります”と言い 何ももらえなかった 男性をからかっていました とても楽しんでいて よく解っています お金に恵まれなかったので 逆にスピリチュアルなのです スピリチュアルな女性は物に執着せず 自分の威厳を保ちます そしてスピリチュアルであることを 態度で示します これはとても素敵なことです 例えば日本に関して ちょっと変わっているといいましたが その日本に行った時 建造中の建物のデザイン タイルを気に入りました “一つもらえませんか”と言うと “いいですよ あとで船に送ります” そしたら大量の タイルが届きました “どうしてこんなに?” と船長に訊くと “全種類を持ってきてくれたようですよ” 信じられますか つまり 彼らの包装の仕方とは 違う面があるということです だから何かをもらった時に がっかりせずに 込められた意味を 理解するのです 気づいていない素晴らしい意味が あるかもしれません どうしてそれをくれたのか 訊くとよいでしょう これが吉兆というもので ラクシュミの最高の性質です あなたの贈り物は何であれ 吉兆であるべきです 例えば子どもがイタズラで トカゲを捕まえてきてあげようとします 不吉なことでも教えられていないので そういうことをします 吉兆でないと教えないといけません 女神は喜びません 間違った物を持ってきてラクシュミを侮辱して はいけないと分からないといけません 知らないのであれば 学ぶべきです この意味でこれは ディワリに関係しています 最も素晴らしいメッセージは シュリ ラーマに王座が与えられた事です シュリ ラーマは 正義とフェアプレーの体現でした 私達の感謝の念や愛情は シュリ ラーマのような偉大な存在に 向けようと感じるべきです これはとても精妙なことですが 分かろうとしなさい あげたくないのに あげてはいけません 贈るなら その人にふさわしいものを 贈らないといけません これこそがシュリ ラーマの 性格から学ぶべきことの一つです 彼が村の森で 老婆に合った時です 彼女は歯が全部欠けているような その地の原住民でした 彼女はシュリ ラーマに “ベール”と呼ばれる ある果物を贈りました “味見したら どれも甘かったです” “甘くないものをあげたく なかったから味見しました” “ちょっとかじったら甘かったら どうぞ食べて下さい”と 彼はすぐに食べました でも弟のラクシュマナは とても腹を立てました インドでは口をつけたものを あげることは不吉で やってはいけないこととされます でもシュリ ラーマは “こんなおいしい果物を 食べたことがありません” すると彼の妻が“私にも下さいな 私はあなたの分身なんだから” シュリ ラーマが彼女に渡すと “なんて美味しい 素晴らしい” 彼女が食べたので ラクシュマナも “お姉さん 私にもください”と 彼女は“この女性のことを 散々言っていたのに” 彼は“もう許してく下さいよ”と シュリ ラーマは 彼女の愛を ヴァイブレーションを この果物から感じられたのです だから奥さんにもそれが届いて その和に加わりました なんであれ愛をもってする ということです 愛をもってすれば 吉兆にすることができます でも愛がなく 何らかの企みが あるなら役に立ちません これこそが贈るということ シュリ ラーマのような 偉大な神に贈るということです 彼女は愛をもって 彼にそれを贈りました そのようにあなたもとても素朴なら 何が一番か分かるでしょう 今日でディワリはお終いです 改めてディワリおめでとう 栄えある新年を祈念します 神のご加護がありますよう! このラクシュミは マハラクシュミになります それはお金の価値の理解が ある点に達すると あなたは執着を 離れるということです すると新しい姿のラクシュミが現れます それがマハラクシュミです それがあなたをより高みへ スピリチュアルな目覚めへと 連れて行く力です 豊かな国では どこでも真理を探求し 見つけたいという欲求が 出てくるのを見たでしょう マハラクシュミの力が働き出し 真理を探求し その探求の中で皆さんは サハジャ ヨガに来たのです なので マハラクシュミは大切です コラプールには マハラクシュミの寺院があり 地面から隆起したと 言われています でも彼ら自身何故 その寺院で ジョガワで “アンべよ 目覚めよ”と歌われたのか 知りませんでした アンべとはクンダリーニです 何故マハラクシュミの寺院で歌うのでしょう どうしてその寺院でクンダリーニを上げる “ジョガワ”が歌われたのか あなた方なら理解できます