Diwali Puja, Power of Innocence Lecco (Italy)

Diwali Puja, “Power of Innocence”. Lecco (Italy), 25 October 1987.
私達は始めに シュリ ガネーシャに礼拝します シュリ ガネーシャは 私達の内にある純真の源だからです ですから内にある 純真に礼拝します この純真は あなたに啓蒙を与えます 昨日お話ししたように 光は一般に純真で表されますが それは知識のない 純真さです しかしあなたの光の純真さには 知識が備わっています 人は知識ある者は 決して純真にはなれないと 素朴にはなれないと考えます 純真に対する 概念においても 純真な者は常に騙され 軽視されると考えます しかし純真は力です 守る力を与えます 知識の光を与えます 世俗的な意味で 知識は いかに人を利用し 騙し 金儲けをし 人をいかにからかうか 蔑むかを指します しかし純真の光は 愛が最も高いものであると 分からせます そしてそれは人をいかに愛し 気にかけ 優しくするかを教えます またあなたの内に 光をもたらします 世俗にあるアヴィッディヤとは 対称的です 外的なアヴィッディヤは 私達に 競争心やいかに人を 貶めるかを教えます そこに恐れや 不安があるからです この知識に安心感は 全くありません 安心感があれば そのようには振る舞いません 純真の光は 全てを知っています そこに恐れはありません “子どもは純真だ”と言うとき 純真の力を持っているということです 子どもが高い所から落ちても 助かったケースが多くあります 一方若者はさほど高くない所からでも 死ぬことがあります 子どもは落ちる恐怖心がなく ただ楽しみます パラシュートを 使っているかのようです そして落ちた後も 立ち上がって皆に微笑みます なぜ皆が心配しているか 理解できません その純真さの中で子どもは 世話され守られていることを知ります 自分より高次な力があると 感じています ですから心配しません しかし子どもに 様々な概念を植え付けると 子どもは純真の力を 失い始めます そして臆病になり ずる賢くなり 不道徳になります それでも 子どもの純真さは ある意味 無知の純真さと言えます 人生における危険を 知らないからです しかし純真の光は すべての危険を知っています どう取り除くかも知っています そのような者といかに 関わらないかも知っています ある賢い者が 階段を下りようとしていました そこへ下から愚か者が 上がろうとしていました 愚か者は劣等感があるゆえに 常に攻撃的です そこで愚か者は 一人しか通れないため ”馬鹿な者にゆずる気はない” と言いました すると賢い者は “私は馬鹿な者にゆずりますよ” と言い道を開けました このように純真の光は どこまで相手に踏み込むか どこまで話すか 相手の人格や問題に どこまで立ち入るか教えてくれます この者は相手が愚かな者だと理解し ”ゆずります”と言いました そのような者には 気にもかけません この純真の光は 分別を与えます どこまで踏み込むか 分かります “私は彼を愛しています” 相手に蹴られても 叩かれ 困らされても 取り憑かれても その者に 惚れ込む者がいます 自尊心もありません 世間的には 純真かもしれませんが その者は啓蒙も 純真もありません 啓蒙され 純真であるなら あなたの純真に力があります それはまずあなたに 分別を与えます 手にランプを 持っているとします すると持っている物が 蛇か紐か分かります ランプがなしには 見れません 蛇だと分かっても 逃げ出すか 愚か者なら “噛んでみてどうなるか様子をみよう” と言うかもしれません しかし啓蒙された者なら 蛇に”放っておいてください” と言うでしょう 蛇も理解して去るでしょう 邪悪な蛇なら ただ蛇を一瞥するだけで 蛇の方から 逃げ出すでしょう ですからこの純真の力は とても大切です それは啓蒙を通してのみ 得られます 人は始めは 無知で純真です 後に純真でも 無知でもなくなります 啓蒙もありません 両方の本質がなければ ずる賢くなります また無知ではなく 知識があり すべてに長けていて 知性や知識の豊富さゆえに 名声を得たとしても そのような者は 世間的な知識はありますが 純真さはありません そのような者は 思考をコントロールしようとします そして純真さが失われます 純真さは愚かさだと考え 純真さに敬意を払いません 人を巧みに操ろうとしたり 過激なことしたり 傷つけたり ひどいことを言います そのようなことに 脳は使われます 純真に戻れないからです 私達はそのような者を 好みません 彼らは”自分たちは優れていて 選ばれた者だ”と自讃し 同じ考えの者達と いようとします ですから無知に いわゆる知識が加わります 内側は完全に無知で 外側に知識があります そうなると内に 真実を求めようとしません 彼らの外側に いわゆる知識に満足するからです その状態で突き進めば 痛い目をみて ”内側が全くの暗闇だ” と気づきます 私達は太陽が輝く中 窓を密閉して生きることはできません 内側に光がないといけません 自分達は何者で 自分の力は何で どれくらい高められるか 人生の目標を どう達成させているかを 見ることができる光を 持たないといけません これらの光の啓蒙は あなたの内にヴァイブレーションとして チャイタンニャとして現れます チャイタンニャ自身が光です この光と普通の光には 違いがあります 普通の光は あなたの目に訴えるだけです 対象が石であるか木であるか 家か人間の顔かを教えます しかしその人が 良い者か悪い者か この家にヴァイブレーションが あるかないかは教えられません あなたに吉兆を与えません 吉兆感も教えられません 私達はガネーシャの 純真について話しますが それは私達に吉兆感を与え 私達自身を吉兆にします ですからチャイタンニャ自身が 啓蒙です それが持つ全ての知識を あなたに教えます いかに微細であるか 想像してみてください 大変微細な チャイタンニャが 知性を持ち 分別を持ち その者が良い者か 悪い者かを教えます 大変簡単に サハジャ ヨガで得ました 自身の複雑な仕組みに 何が起こったか気にもしないほどです それには知識があります その人が良い者か悪い者か 分かるだけでなく どのような問題を 抱えているかも分かります 普通の光は人の容姿や歩き方といった 一次元までの理解を与えます 人が何かを想像すれば “私はこう思う” と言います 内に流れるチャイタンニャによって あらゆるものを感じることができます それは全てに遍いていて 全ての分子に脈打っています そして私達に 全ての物質や動物 人間 全ての神格についての知識を与えます この光なしにあなたは私を 認識することはできませんでした どの神格も 認識できませんでした 人生における立ち位置や目標を 知ることもできませんでした 人生の目的や なぜここにいるのかもです あなたはここに金儲けのために 貯金したり 株を買うためにいるのですか あるいは家を買うため 妻に手の内で踊らされるため 妻に対して支配的になったり 子どもの成長に精を出すためですか チャイタンニャがはっきりと それは違うと教えるでしょう しかし これらに頓着するなら コレクティブな現象から 完全に切り離されてしまいます そしてこの光は消えます この光が繋がりを失うやいなや 光をもつことはできません ですからヴァイブレーションの繋がりが 強くないといけません 完全で 安定していないといけません 例えば不安定で 動く光があるとすると 物事を適切に 理解することができません ヴァイブレーションは 全てを知っていますが あなたがヴァイブレーションに 敬意を払わない道具でいるなら ヴァイブレーションで伝達ができない 不完全な道具でいるなら どう伝達するというのですか 子どもを外に 連れ出してください あまり無理しないように 子どもに短気になっては いけません 子どもが泣いているのは 何か欲しいのでしょう […]