Diwali Puja, Expression of Love Novi Ligure (Italy)

Diwali Puja, Novi Ligure, Italy, October 25th, 1998
今日ディワリ プージャのために 皆さんに会えて嬉しいです ポルトガルで行う予定でしたが ここになりました ディワリ プージャは小さなものですが 極めて意義あるプージャです まず ディワリでは初日に 家族のための何かを買います 何か料理に使うものや 奥さんに宝飾品などです その日が主婦の日で 主婦に敬意を表す日だからです その結果 インドでは 主婦がとても尊敬されています 実際は 世界中で 尊敬されています 政府の祝賀会でも 婦人がどこに座るかが 大切にされます 今日先進国においても 特別な尊敬を集めます 主婦は学もなく 素朴で 現代的ではないかもしれません ロンドンで プログラムをした際 私たち政府の代表が 招かれましたが 団長の奥さんが 見つかりませんでした “席はあるのに 彼女はどこでしょう” と訊かれました “分かりません この辺りにいるのでは” 会が始まる前に化粧室に行ったら そこで座っていて驚きました “何をしているの 皆待っていますよ” 彼女は“座っているように 言われました” 私は外に行き “あそこに 座っていますよ 呼んできたら” “あれが奥さんですか?” “もちろんです” “事務員かと思いました” “なぜそう思ったの?” この女性はモダンな スリットの入ったドレスを着ていたので 秘書官だろうと 思われたわけです なので待合室で 待つよう言われました 主婦であれば キチンと立派な服装をすべきで 事務員や秘書のような 格好をするべきではありません 主婦が最高位だからです ですが彼女はパーマをかけて お金をかけて着飾ってきました なのに可哀想に 待合室で待たされることに なってしまうのです 主婦とは 家の威厳なのです それどころか 国の文化や国自身を表す存在です その国の文化を 表すのです 最近のインド映画では おかしな格好をしていますが そんな格好をした主婦は 見たことがありません 映画だけです 社会が強固で 主婦はキチンとすべきと されるからです キチンと 威厳を保ち 品のある振る舞いをしなければなりません 逆にインドのシャハストリ首相 の例があります 妻はシャハストリさんが投獄されたので 学校にいけず 学がない人でした 素朴な 普通の女性でしたが フランスへ行きました 当時フランスの大統領はド・ゴールさんで 奥さんも素朴な人だったのです シャハストリさんは妻に“親友の ド・ゴール婦人と別れる時泣かないで” 彼女たちはお互いにフランス語も ヒンディー語も知らないのに 二人は大親友になったのです 結局旦那さんに泣かないように と言われたけれども 結局 帰り際に 泣きだしました シャハストリさんは “泣かないように言ったのに” 奥さんは “彼女が先に泣くもんだから” そうやって主婦同士で分かり合い 連帯ができていったのです 共通の問題があるのです 子どもや夫を丸々世話しているからです 主婦の問題は 同じだということです 主婦は小さなことを よく知っています 少なくともインドの男性は何も知りません 地に足がついてないと思います 女性のほうが理性的で 細かいことにも良く気づいています 面白いことに 男性は日常の問題ごとに 関わっていないため 可笑しな 間違いをしたりするのです 一方では 主婦は生活に関わり 他方では 家族や子どもを世話します さらに社会に対しても 責任があります 世間を維持しなければなりません 女性に分別があり 成熟した国では 社会や家庭 子ども達が 極めて良くなるのは驚きです この意味でインドは 良い国 良い社会です これはグルハ ラクシュミ である主婦の 文化における 重要な働きのおかげなのです これは インドではよく見られ 主婦が とても尊敬されています なのでサハジャの文化でも 主婦を尊敬することが最も大切です でもそれは夫を支配して 喧嘩したり 困らせるようなことを 意味しません 社会において主婦が 重要な役割であるということです 彼女は女神のように 扱われるのです でも 彼女も 女神に値すべきです 彼女をドアマットのように扱えば 子どもたちは尊敬しないでしょう 適切に尊敬しなければ 子どもたちも母親を尊敬せず 子どもへの影響力がなくなるでしょう 母親が尊敬されないと 子どもたちは我がままで 支配的で怒りっぽく 協調性のない子になってしまいます なので今日 13日目の ダンテラスの日には 主婦に何かを プレゼントするべきです 少なくともポットか 何かキッチンで 使う物をプレゼントして 敬意を表すべきです 母親が尊敬されない家庭では 子どもが問題を起こし 結婚時など家族の皆が 大変な思いをします 男性は妻を尊敬しなかったことが 間違いだと気づくべきです 子どもの前で怒鳴ったり 敬意に欠けた態度を見せれば 子どもは母親を 尊敬しません 何も欲しがらずに あなたや その家族を世話している女性に そんなことをするのは 罪なことです 女性がどれほど問題を起こすかは 政治を見れば良いのです 政治に参入すれば 男性たちを皆おかしくします しかも一人の女性の 特有の考えによってです 彼女たちの領域は 家庭にあるからです しかも一人の女性の 特有の考えによってです 彼女たちの領域は 家庭にあるからです 女性が家庭で尊敬されないと 外へ出て 突飛な振る舞いをします 忍耐も苦労も多いけれど 家庭で主婦は尊敬されるべきです それがとても大切な グルハ ラクシュミのメッセージです 2日目はナラカスラという ひどい悪魔が成敗された日です これはシャクティの力によって なされました ナラカスラは多くの人を苦しめ ずる賢いことをたくさん行ってきました とても狡猾でずる賢く 誰も殺せませんでした そこで特別な力が地上に降りてきて ナラカスラを倒したのです ナラカスラの成敗は 4日目でした その際に地獄の門が 閉じたとされます なので人はその日は 早朝にシャワーをしますが 地獄の門が開いている時に 水浴びは良くないと思います むしろ 彼が地獄に 落とされるまで寝ていなさい ナラカとは地獄(奈落)を意味し 彼がおびき出されて殺されます 最後が一番良い日で シュリ ラーマと弟のバラットの再会です シュリ ラーマは父親の命で 14年間森に追放されていました ある意味 投獄されていたようなもので 城での生活から森での大変な生活に 妻や弟と共に追放されたのです ラーマーヤナの話は ご存じですね 城で生まれ育った子どもが 王になることなく 酷い生活を強いられて あんまりです でもシータが同行して 彼を支えました でも結局シータすらも ラヴァナに誘拐されてしまいます そしてラーマはラヴァナと戦い 殺して妻を取り戻すのです 都アヨッディヤに帰還したときは 大きなお祝いでした 弟のバラットは 兄が大好きで 国を治めるにも 兄のサンダルウッドのサンダルをおいて 統治したと言われています それを王座におき 統治しました バラットミレンといわれる バラットとシュリ ラーマの再会が祝われ シュリ ラーマが 王として戴冠されます 何千年も前の古い話です この祝祭は意味深く 善き王が王座につき統治する という意味があります 彼の経験した不正や残虐な 行いが全て終わるという意味で ディワリは重要です 最終日は 女神ラクシュミを崇拝します 彼女の恩恵でこれら全ての出会いが 可能になったからです 9種の色々なラクシュミが私達に 宿っていると以前お伝えしました ラクシュミ プージャでは ラクシュミ自身を崇拝します 金銭ではありません 金銭の崇拝は間違っています 私達のもつ金銭や富をラクシュミとして 注意深く使うべきだという意味です 彼女は流動的なので お金も滑り落ちることがあるからです 反対に ケチになってもいけません ラクシュミは けちな人を好みません でもお金を使うなら 正しく使うべきです ラクシュミは原初の海が 撹拌された際に創られ 4つの手を持っています ひとつは与えるためです 彼女は気前よく与えます そして別の手では祝福します 片方で与え もう片方で祝福します 大切なのは 誰かに何かをあげるときに その何かというより 祝福を与えることです 金銭だけでなく 祝福を与えるのです 残りの2つの手には ピンク色の蓮の花を持っています ピンクは愛の色で お金を持つ人は 愛に満ちた家を持つべきです 客人は誰であれ 尊敬されるべきです 神のように 扱われるべきです インドでは外国人は 神のような存在と考えられています ここでは悪く捉われますが インドでは尊敬を表します 神のようです あなた達もインドで受けた 歓待を覚えていますね これがインドの文化の基盤で 客人であれば 神のように扱われるのです 別の国なら 全くの反対で 外国人なら話すことも 憚れると思われます どうしてそんなメンタリティに なったのかわかりません でもサハジャ ヨギ達は 違います 彼らはお客を歓待し 良く面倒を見て 美しく連帯していると聞きます これが蓮の花の意味で 愛に満ちた家というものです 身体に刺のある カブトムシですら 蓮に止まると内部に招き入れられ 心地よく眠ります カブトムシすら 邪魔されません 富める者は このように人を扱うべきです でも世間では金持ちは カブトムシのようです 刺だらけで人を侮辱したり 自分のことばかり考えています ラクシュミとしての金銭を得ることで 悪魔的になるというのが驚きです 彼らが他人をどう扱うかは 更にそれ以下です これらが女神の姿の意味です なによりも蓮の花に立っています 誰にも圧力をかけません 自らで存在します 誰にもプレッシャーをかけません 自らの脚で立ち 威厳をもって 自分の体重をバランスしています これこそが ラクシュミのあるべき姿です この作用で経済やその他の 危機に陥った国が発展していくのです 人民が楽しむでしょう お金を楽しむのでなく いわゆるデザイナーズブランドなどの 高いものを持とうと思うのは 攻撃的な考えです デザイナー達は ラクシュミに反しています あなた達のお金を巻き上げて 無駄にさせるのです 人は異性関係や飲酒といった 無駄な習慣に走ります ラクシュミの本来の恩恵と いえるようなことはしません なので誰かに何かを贈るときには 心から贈るべきで それがラクシュミの プラサードになるべきです でなければ誰かに プレゼントを贈る意味がありません とても狭い了見で 贈り物をする人がいます それでも 贈ろうとするのです 日本では 大きな贈り物をします ところが開けていくうちに 結局 マッチ箱サイズになったりします そのマッチ箱の中に 2つのマッチ人形の ようなものが入っています “何でこんなに大きな包装を するんですか”と驚きました でもとても素朴な民族です 日本に行った時には 雨の日でも行った先々で 贈り物を頂きました “何故こんなにくれるのでしょう” と尋ねました “彼らはあなたが 王族と思っています” “何でそう思うの?” “あなたが美容室に 行かないからです” “本当に?” “日本の皇族は美容室に 行かないんです” “それは知らなかった” “それであなたが 王族だと思ったんですよ” 彼らが美容に関して どんな考えを持っていたか 想像してみてください インドでは女性はキチンと 髪をとかしていなければなりません 彼女はヒッピーみたい ではいけません ここにはまだヒッピーを信じている人がいて そういった髪型をしています 女性は社会で 大きな役割を果たします 着るものや行く場所など 子どもは父親よりも母親から 影響を受けます 父親の方が影響力がある 場合もありますが 洗練されたものは 全て母親から受け継ぎます なので衣服や生活スタイルの 理解は女性によります ロンドンにいるインド人のヨギニに 今の流行を訊いたら マラティ語で “ジプレヤ”と答えました 前髪をこうすることです インドでは母親に “ジプレヤをどけなさい”と言われます 前髪をこう被せていると 斜視になるからです でも前髪を目まで伸ばすのが 流行っているようです これが流行りです 今は皆 品のある人でも そうしていて そうしないのは サッチャーさんぐらいです どう逃れたのか わかりませんが 女性は誰かの真似をする 必要はありません それは卑屈です 流行っているからといって 何故するのでしょう 流行を作る人の術中にはまるのは 馬鹿げたことで あなたが依存的だからです 自分の個性や 理解の上に立脚しなさい 自分の見かけを 台無しにするのでなく 威厳と理解をもって 良くしていくようにしなさい これは女性に より当てはまります ラクシュミ プージャは 女性向きです 女性がいかにあるべきかに 関するものです 私は女性は男性よりずっと 威厳を持ちなさいといつも言ってきました 男性は馬鹿かもしれませんが いいのです 女性が威厳と分別を 持たなければいけないのです よくご存知のように 男性はよく解っていないのです 可哀想に 大学の勉強しかわかりません 実際的なことになると 何も解っていません だからそれで 気を悪くする必要もありません 男性達が“自分はあれもこれも 知ってる”と言いながら 何も知らずに間違えるのを 見ていると面白いでしょう でも男性は“知りません”とは言いません そいいう性質だからいいのです それは別に何か意味があるわけではなく 単に分かってないだけだから 芸術や美的センスについても 男性はどこか抜けていて 大して知っていると思えません 可哀想に ある種の服を手にすると ずっとそれで通します いつも同じようなスタイルの服を着ていて 他に欲しがりません でも女性は芸術的です インド女性がサリーをやめて ジーンズを履いたら農村部はどうなるでしょう 内職でサリーを作ったりして 生計を立てているからです なのでインドにそういった 洋服を紹介するのは無理です 学校ではあっても 結局は好きなサリーに戻るでしょう サリーはこれからも 続いていくでしょう それぞれが個性的で とても美しいです 芸術やアートに関しては やはり女性の方が優れています 男性が分からないのは 構いませんが 女性は家の中を 完全に綺麗にするべきです 蓮の花のように 居心地よくしなさい でも家事に関して独裁的な ヒットラーのような女性もいます “こうでなければダメ”と 男性の生活を惨めにします 自分の家でいつも新聞を 持ち歩く男性がいました “こうでなければダメ”と 男性の生活を惨めにします 自分の家でいつも新聞を 持ち歩く男性がいました なぜ持ち歩くのか 尋ねると “新聞を敷いて座るんです” “何故?” “ちょっと汚しただけで 妻に怒られるから” “どうして?” “彼女は何かが汚れるのが 嫌いなんです” “とても細かいので 新聞を敷いて座ります” “やり過ぎです” と言いました 彼は“あなたもやったほうが いいですよ”というのです とにかくやかましくて 病院よりひどく そんな家に住むのは 無理です このようにとても細かく 几帳面な女性もいるのです でも普通女性は親切で 家族や皆にもとても好意的です これはとても大事なことで 私には大家族がいて 皆が兄弟で 一人ひとりが大切なのです だれもが違った香りの個性的な 人格を持っていて 素晴らしいです 違いにもかかわらず 皆がお互い好意的に 楽しんでいるのが素晴らしいです ロシアでは特に女性が 非常に気立てがよく かつユーモアがあって 何でも楽しんでいます 驚いたのは彼らに 二千人分の贈り物を持って行ったら 一万六千人もいたのです どうやって 贈り物をあげましょう すると一人の女性が ネックレスを外して “これをあげましょう イヤリングもあります”と言い 何ももらえなかった 男性をからかっていました とても楽しんでいて よく解っています お金に恵まれなかったので 逆にスピリチュアルなのです スピリチュアルな女性は物に執着せず 自分の威厳を保ちます そしてスピリチュアルであることを 態度で示します これはとても素敵なことです 例えば日本に関して ちょっと変わっているといいましたが その日本に行った時 建造中の建物のデザイン タイルを気に入りました “一つもらえませんか”と言うと “いいですよ あとで船に送ります” そしたら大量の タイルが届きました “どうしてこんなに?” と船長に訊くと “全種類を持ってきてくれたようですよ” 信じられますか つまり 彼らの包装の仕方とは 違う面があるということです だから何かをもらった時に がっかりせずに 込められた意味を 理解するのです 気づいていない素晴らしい意味が あるかもしれません どうしてそれをくれたのか 訊くとよいでしょう これが吉兆というもので ラクシュミの最高の性質です あなたの贈り物は何であれ 吉兆であるべきです 例えば子どもがイタズラで トカゲを捕まえてきてあげようとします 不吉なことでも教えられていないので そういうことをします 吉兆でないと教えないといけません 女神は喜びません 間違った物を持ってきてラクシュミを侮辱して はいけないと分からないといけません 知らないのであれば 学ぶべきです この意味でこれは ディワリに関係しています 最も素晴らしいメッセージは シュリ ラーマに王座が与えられた事です シュリ ラーマは 正義とフェアプレーの体現でした 私達の感謝の念や愛情は シュリ ラーマのような偉大な存在に 向けようと感じるべきです これはとても精妙なことですが 分かろうとしなさい あげたくないのに あげてはいけません 贈るなら その人にふさわしいものを 贈らないといけません これこそがシュリ ラーマの 性格から学ぶべきことの一つです 彼が村の森で 老婆に合った時です 彼女は歯が全部欠けているような その地の原住民でした 彼女はシュリ ラーマに “ベール”と呼ばれる ある果物を贈りました “味見したら どれも甘かったです” “甘くないものをあげたく なかったから味見しました” “ちょっとかじったら甘かったら どうぞ食べて下さい”と 彼はすぐに食べました でも弟のラクシュマナは とても腹を立てました インドでは口をつけたものを あげることは不吉で やってはいけないこととされます でもシュリ ラーマは “こんなおいしい果物を 食べたことがありません” すると彼の妻が“私にも下さいな 私はあなたの分身なんだから” シュリ ラーマが彼女に渡すと “なんて美味しい 素晴らしい” 彼女が食べたので ラクシュマナも “お姉さん 私にもください”と 彼女は“この女性のことを 散々言っていたのに” 彼は“もう許してく下さいよ”と シュリ ラーマは 彼女の愛を ヴァイブレーションを この果物から感じられたのです だから奥さんにもそれが届いて その和に加わりました なんであれ愛をもってする ということです 愛をもってすれば 吉兆にすることができます でも愛がなく 何らかの企みが あるなら役に立ちません これこそが贈るということ シュリ ラーマのような 偉大な神に贈るということです 彼女は愛をもって 彼にそれを贈りました そのようにあなたもとても素朴なら 何が一番か分かるでしょう 今日でディワリはお終いです 改めてディワリおめでとう 栄えある新年を祈念します 神のご加護がありますよう! このラクシュミは マハラクシュミになります それはお金の価値の理解が ある点に達すると あなたは執着を 離れるということです すると新しい姿のラクシュミが現れます それがマハラクシュミです それがあなたをより高みへ スピリチュアルな目覚めへと 連れて行く力です 豊かな国では どこでも真理を探求し 見つけたいという欲求が 出てくるのを見たでしょう マハラクシュミの力が働き出し 真理を探求し その探求の中で皆さんは サハジャ ヨガに来たのです なので マハラクシュミは大切です コラプールには マハラクシュミの寺院があり 地面から隆起したと 言われています でも彼ら自身何故 その寺院で ジョガワで “アンべよ 目覚めよ”と歌われたのか 知りませんでした アンべとはクンダリーニです 何故マハラクシュミの寺院で歌うのでしょう どうしてその寺院でクンダリーニを上げる “ジョガワ”が歌われたのか あなた方なら理解できます […]

Guru Puja, A Guru Should Be Humble And Wise (Nirmal Temple)

Guru Puja. Cabella Ligure (Italy), 20 July 1997.
今日のプージャは とても大切です あなたは 自分がリアリゼーションを得て 他人に与えるために必要な すべてを知っています もう知っているのです 大切なことで 与えようとしなければ 自分に信念もなく 自信や自尊心を 持てないでしょう 次に 与えたとしても 巻き込まれないことです 多くの人が 巻き込まれ過ぎです 誰かに与えると すごいことをした気になって 家族や親戚などに 働きかけます ご存知のように 親族だからといって リアリゼーションに近いとは 限りません 成長するにはコレクティブである 以外にありません 道場からはなれ 一人で 成長できると思っても不可能です サハジャ ヨガとは そういうものではありません 昔は別々に分かれて ヒマラヤに入り 数人だけがスピリチュアルな 成長のために選ばれました ここではそういう問題でなく コレクティブを どう育てるかという問題です それで コレクティブな人になり それを楽しみ そのために働き ともに生きるようになります そのような人は 新しい力を得ます 精妙で 浸透力がある あらゆるところに 入り込んでゆく力です それはコレクティブな気質を 持たないとできません 完全にコレクティブでないと サハジャ ヨガに必要な 高みは至れません 知っての通り 世界は問題だらけで 沈みかけているようです アメリカに行ったときは “ああ これは地獄です” と感じました 何の徳もなく 徳を信じようともせず 不徳を崇めるような そんな雰囲気に満ちていました 世界中で そのアメリカの影響がみられ 何も悪いことはない と思っています 何を言ったところで 耳を傾けることはありません 生活の根底から 崩れてきていることが見えていません 家族 社会 国中がです ひどく醜い不徳な性質が あたりに満ちていて そんな考えが どこからきたのか解りません 私が一つ一つあげる必要はありません ご存知でしょう あなた方は子供たちを救うためにも 指導者になる必要があります サハジャ ヨギだからと それについて話し 宣伝しても 相応の力があなたになければ 失敗に終わるでしょう では どうやってそれらの力を 内面で育てるかをみるべきです 言うのも気恥ずかしいことですが 師に対してきちんと振る舞うことです 教わったと思いますが 教わらずとも リアリゼーションを得ると 自発的に 自然に 謙虚な態度が出てきます それとともに 指導者に必要な 多くの性質を 身につけます 指導者と同じ地平に 自分が立っていると あなたに向かうものは ないでしょう なので指導者の位置より ずっと低い位置に立たねばなりません 私が怒らないのを 利用する者がいます 何度も“あの人たちを糾すべきです” と言われました “あなたと対等にしゃべっています” 私は“彼らは教訓を学びます” と言いましたが 学ばない者もいて 相変わらず私に対して 友達と話すかのように 振る舞う者がいます まずは完全な謙虚さです 極めて 謙虚でなければいけません 誰かと話すとき謙虚ですか 誰かについて考えるとき 謙虚ですか 家族に対しては 謙虚ですか 指導者であらんとするなら 謙虚さが最も大切です 謙虚の海に飛び込むべきです “謙虚だと利用されます” という者もいますが そんなことはありません あなたは常に守られていることを 忘れないでください パラマ・チャイタンニャが 世話をしています 頭で知っていても あなたは本当にそう信じていますか 本当に信じるなら 恐れないことです 心配せず 無意味な影響を 受けないことです “何が起るんだろう どうなるんだろう” と心配していると パラマ・チャイタンニャは あなたをそのままにします いかにそれが働くかを見なさい 自分がどう振る舞うか見なさい ちゃんとしないまま 自分を誇示すれば それなりの見返りがきます 私が何かするのでなく パラマ・チャイタンニャが教訓を与えます あなたは 今のようではいけなかったと そもそも何故 我々は サハジャ ヨガにきたのか 根本から初めなさい 私たちがサハジャ ヨガに来たのは 究極の真理を知りたいからです そしてヴァイブレーションを通して 知ることができました 何が絶対的な真理かを 知ることができました その真理にそって働くべきです あなたが感じる絶対的真理に 従わないといけません 残念にも 自分のヴァイブレーションを過信して 自分が感じているヴァイブレーションが 最高だと思っている人がいます それは正すのが 難しいポイントです エゴから来ます エゴがあると 自分の間違いに気づきません ヴァイブレーションが 何か示唆していても 自己からでなく エゴからきています エゴが自分を甘やかして 本来なら“こんなこと するんじゃなかった”とか “私は間違っている”と 気づかずにいるのです このプロセスでは 自分が“精妙になっているか” “粗野になっているか” 観察するのが一番です 些細なことで いつもヴァイブレーションを チェックしている人もいます 木や花 土地などの 物質的なことを チェックします でも何のために しているのでしょう 物質的な利益のためです ヴァイブレーションさえ チェックすれば 安全で 損失を被らないと 考えるのです そうではありません ヴァイブレーションは 世事のためではありません ヴァイブレーションをおとしめる事を するべきでありません ヴァイブレーションが害になる事を 示唆することさえあるのです ある人にある場所に行くよう頼んだら 彼は“行きませんでした” “何故?”と訊くと “ヴァイブレーションが悪かったからです”と “ヴァイブレーションが良かったら 行く必要ありません” “だからあなたに頼んだのに” “ヴァイブレーションが 悪いからといって” “行きたがらなかったなんて” 結局 楽で 快適な生活をしたいのです サハジャ ヨガによる解決を期待し 叶わないなら役に立たないと考えます どんな望みでも 叶えたいのです それらの望みは 個人的なものです “子供が具合悪いので 良くなって欲しい” “夫の態度が良くないので 良くしたい”とか “家がないので欲しい”と いつも気が散っていて 未だにいわゆる 消費マインドでいます “女の子でなく男の子が良い”と言い 娘が生まれると サハジャ ヨガのせいにしたりします 望み通りにはならないのは サハジャ ヨガのせいだと 更には サハジャ ヨガのせいで 苦しんでいると考えます または信念が弱まったり ぶれたりします 深く根付いていれば “何があろうとサハジャ ヨギでいる” というでしょう 誰かが亡くなったとして といっても サハジャ ヨガでは難しい事で パラマ・チャイタンニャが許さない限り 死のうとしても死ねません ですが 仮に 誰か自殺しようとしても その望みが叶うとは 限りません 叶わないからといって 機嫌を損ね “何がいけないの?” と考えます でも あなたの望みは 神の望みでなく パラマ・チャイタンニャが それなのです 私がアメリカに行ったときに ネガティヴィティに攻撃され 困らせられました この間ずっと いわゆる苦しみと痛みを味わいましたが それはこの頭の悪いアメリカ人が 育つ為にどれほどの尽力が必要か それを かの地のヨギに 見せるためだったのです お金を搾り取られて どれほど彼らが 愚かで馬鹿げているか 多くの者が私に “マザー 例えば あなたが300ドルでもとれば” “何千人もの弟子が 出来るでしょう”と告げました 私は“そんな人たちは 私の弟子ではない” “お金をとるなら 価値あるものを あたえるだろうと考えるなら” “彼らは完全に馬鹿です” と答えました サハジャ ヨガは 金銭で買うことができません この第一の原理を 彼らは理解できません 大半の者がリアリゼーションは 無料で得られると 理解しません ある裕福なグジャラート人が ニュージャージーで サハジャ ヨギに聞きました “どうして こんなに簡単なんですか?” “これは難しい事だと 教典に書いてあります” “リアリゼーションを得るのは 極めて困難だと” “なのにどうやってそんなに 簡単に与えられるのですか”と 誰も答えられませんでしたが こう言うべきだったのです 確かに難しく 多くには 与えられないと言われていますが 現にできる人がいます ならば どうやっているか 考えてみるべきです この種の馬鹿げた質問が多く 今も続いています 丁寧に伝える必要があります “でも それなりの人でないと・・・” そんな訳で彼らはお金を払い 自らを愚弄するのです “私にはグルが3人いる” “私には7人いる” どんな状況なんでしょう 彼らは極めて愚かで サンスクリットで ムールと呼びます 頭のない人はリアリゼーションを 得られませんので諦めなさい 口論しようとするなら 諦めなさい そんな権利はありません リアリゼーションを 得る権利はありますが 馬鹿げた質問をして 論争する権利はありません あなた方も指導者としての 自分の威厳を保つことを 忘れない事です 自分が指導者と知ったなら おどけてばかりではいけません 威厳ある態度と同時に 楽しみを与える人格 イライラする事もなく 何か特別なものを 感じさせる人格になります では どうやって そのような人格を持つか 西洋では エゴが最大の問題で 東洋では スーパーエゴが問題です このエゴのあれこれは どこから来たのか解りませんが 自分のエゴを見せびらかします 例えば アメリカでは驚くことに 人種差別の問題があります 黒人と白人間で 差別があるのです 肌の色は 神が与えたもので 皆が同じだったら 軍隊のように見えます 多様性があるべきで 自己表現や表情にも 違いがあるべきです それぞれが 固有の表現を持っていないと 皆が同じでは この世界は何の面白みもなく つまらないものに なってしまうでしょう ですが 人々の心に どれほどの差別心が入り込んだかに 驚かされました あなた方は指導者として 断固として差別に反対すべきです 簡単に解ることは 男性 女性として 更には母親としても 白人が最も 残酷になりうる一方で 優しく寛容な黒人が いることです 肌の色と気質は 対応しないということです ですが 黒人は 差別されたことに反応しがちです その仕方が粗野であったり 残酷になりがちなのです でも この種の間違った 人に対する態度には 動物だって 我慢できないでしょう ならば人に対して そのような態度を見せるなら その人は サハジャ ヨギに値しません そのような 肌が白いとか 黒いという意識をもつ人は サハジャ ヨガで 指導者にはなれません インドのカースト制度も 同様に酷いものです 何の理屈も基盤もなく 身分の上下を 信じる者がいます どんなカーストの者でも 最悪の行いをする可能性があり そこに境界線は存在しません 最下位のカーストから 偉大な詩人や スーフィが輩出されました カーストは人為的です 人為的なものは 私たちに合いません 結局は大変破壊的な事態を 呼びこみます 憎しみは憎しみを呼び 増殖していきます 憎しみを心から取り除けないなら サハジャ ヨギではありません これらすべてが コンディショニングです 白人家庭に生まれれば 白人だし クリスチャン家庭に生まれれば クリスチャンだし ユダヤの家庭に生まれれば ユダヤ教徒です ただ そのように 産まれてきただけです それが身分の高低に つながるでしょうか これらすべての人間の問題は 意味のない優越感に対する 人のこだわりのためで 共通意識によってのみ 変えることが出来ます 例えば 道場でも様々な人種の人が 平等な権利を 相互理解と愛を持って 暮らしています それがないなら 道場(アシュラム)とは言えません かつて “ハーレムで講演をして もらえませんか”と頼まれました “もちろん” と答えましたが “ハーレムがどんなところか ご存知ですか”と言うのです “知っています 害はありません” そのヨギ達は “黒人がいて・・・”と “私も黒人です” 私は黒人とも 白人とも呼ばれますが このような人間に対する 馬鹿げた考えを浄化してくれるのが 愛なのです 白人 黒人と差別すること自体が 人を見る目がない証拠です 深みと博愛があれば そんな表面的なことは 目に入りません 今日は指導者の 偉大さを祝す日です 彼らがどうだったか見なさい インド内外にスーフィなど 多くが存在しました 彼らは白人 黒人などの 人種による差別を 信じませんでした キリストも白人黒人の区別を 信じませんでしたし ブッダも同様です だれもこのような 人為的な問題を 信じませんでした このような人為的な考えが リアリゼーションの後でさえ受け入れられ 私がその対処に追われます それは言葉でなく 行動することで取り除けます どうなくしていくか見てみなさい 簡単です 瞑想をして 自分が何人を愛しているか そして何故なのか 哀れみでなく 愛をどれだけ持っているかを 見てみなさい 中には 美しい例もありますが 捨てるべき固定観念が まだあります サハジャ ヨガで指導者なら とても大切なことです 心が清浄で 開かれていて 愛情深く パラマ・チャイタンニャの旋律を 奏でるべきです まだ人為的な考えで満たされているなら 何が起るかわかりません 心臓移植でさえ 人工物でなく 本物を使う必要があります なので人工的な おかしな考えを 採用すればどんなことになるか 差別的で コレクティヴィティ(集合性)を 与えることはないでしょう 内省が必要です 私たちは一つですか? それともお互いを 裁き合っていますか? この裁きも多く見られます こういったことは ともに生活をして初めて気づくもので さもなくば気づきません 共同生活をして初めて 自らに足りないことを悟るのです 何があって 何がないのか 愛に満ちたハートは 非常に穏やかで あらゆる瞬間が 愛の契機であり 喜びを与えるものです シュリ ラーマのお話があります ベールと呼ばれる 果物を食べる際に ある老女が愛情から その果物に口をつけて試食しました 最高位の王である シュリ ラーマに対して この老女は 最低の位でありながら 愛をもって 果物を試食した上で おもてなしをしたところ 彼はそれを賞賛したのです 彼の妻も“私にも下さい” と言いました が 弟はまだ そこまで成熟しておらず 腹を立てます そこに彼女が “本当においしいですよ”と言うと “じゃあ 下さい”と 彼女は“どうして? 怒っていたじゃないですか” “あなたにあげることないですよ” と言います どれほど心が清らかで 愛情があるか 崇高で 非凡な人格かによって 指導者としてのあなたのレベルが 判断されることが示されています これは完全に自然なもので 人為的に組み込めないものです なんであれ 自然にするべきです 共同生活や 言動の中でのわざとらしさは 問題をうみます ニューヨークのアシュラムには とても細かく 厳しい女性がいました スプーンやフォークの位置や 他の何にも細かくて 多くの人を傷つけるのです サハジャ ヨガでは あなたが指導者になったら これらの文化的タブーは 重要ではありません 指導者はどこでも寝起きできて いつ何でも食べられる そうあるべきです しかし サハジャ ヨガでは 食事が出されると すぐ食べたがる人が沢山いるようです 一度食事を出された時 すぐにお皿を持っていかれたことがあります “どうしたんですか”と言うと “マザーまだ食べていないんですか” “触ってすらいないですよ”と 空腹というのは 最低レベルの欲求です 指導者はそれに頓着しません 得られても 得られなくても大丈夫です エゴを消して 与えられずとも気にしない そんな意識を持つべきです 人より少し遅く出されただけでも 傷ついたりします そんな様々なおかしなことが サハジャ ヨガでは見られます これは最低レベルの欲求で 真の指導者になりたいなら 頓着すべきでありません もちろん 麻薬とか 飲酒をしないなどの問題は もう解決されました それは恩恵です もしそこから始めるとしたら あなたを引っ張り上げるのに どれほど深くまで行く必要が あるかわかりません それは良いとして 皆の注目に値する 美しい生活のため 話し方 振る舞い方 愛し方を 学ぶ必要があります 指導者の権威は 愛を通さずして得られません 例えば 10人で劇をするとして 同じ国や 同じグループの人が 集まっても 面白くありません 音楽のグループにしても 同じ身分や 同じ宗教 同じ学校でやろうとするなら まだ至らない証拠です 指導者であるなら あらゆる文化 あらゆる美を好み 生活に取り入れられるべきです 人種や地位 階級意識で 誰かを 見下すべきでありません 指導者や聖者は 皆そうでした トゥカラマも “神よ 私をシドュールカーストにして 下さり感謝します” と言いましたが 実際は違いました 出自や人格に 常にこだわらないようにしなさい 誰が聖者で誰が違うか わからないくらいが良いのです 聖者であることで 高慢になるものさえいます アメリカ在住のロシア人が とても際立っていることに 驚きました 私に対して目を上げずに 伏し目がちで 深い人々でした ヴァイブレーションが とても深かったのです 共産主義で抑圧されてきて アメリカで 自由というものを見て その無意味さを 悟ったのでしょうか 両極端を知って 自身の深奥に触れ 強さと団結力を持っています 始めて会った時に驚きました ロシアから訪問しているのでなく 現地の人です 何故かと言うと 彼らの頭に 宗教がなかったからです どの宗教も彼らには同じで どれにも 追従していませんでした 宗教も人為的なものなので 指導者は 何の宗教にも属しません 宗教は世界中に問題をもたらし お互いに争っています 彼らは 聖なる存在ではありません 宗教の偏見に 巻き込まれないようにするべきです サハジャ ヨガでもクリスチャンなら そのように見えるので分かります ユダヤ教徒も分かります 何のために サハジャ ヨガに来ているのでしょうか 注意が内面に向けば 見つかるはずです どこが間違いか 指導者として何故成功できないか 自己分析するべきです 指導者としての成功とは 時間に惑わされないことです どの時間も聖なる時間で 誰かが遅れたり早くても 気にしません 時間や時計に隷従しません 300年前なら時計すらなく 誰も時間に 捕われなかったでしょう 第1に 彼は時間を超越している “カラティス”と言われます “グナティス”とは左右 あるいは中央のどこにも属さず それら3つのグナを 超越していて “全てを聖なる光のもとに見る” と言う意味です 良いことであろうと 悪いことであろうと全てに “聖なる光の働きです”と 全てをそこに帰するでしょう グナを超越しています 例えば 誰かが ライトサイドでエゴがあれば “こうしたかったのに どうして 上手くいかなかった”と挑戦します レフトサイドの人は 泣き出して “こんなことが起るなんて” と言ったりします センターの人でも “ヴァイブレーションが足りなかったのか” “なぜ分からなかったのだろう” と考えたりします ですが本物の指導者は “それは起るべきして起った” と言うのです 教訓は何でしょう 間違っていた 正しくなかったと分かるだけです 色々考えて 頭を使わないことです それだけに気をつけて 他のことは気にも留めません こうしてグナを超え どこでも寝食でき 生活できるのです 車でも牛車でも移動できます もらう花輪がみすぼらしくても 侮辱されたとは感じません 彼は何にも 影響を受けないのです 贈り物がシンプルであろうと 何もなかろうと気にしません あなたの目ではなく 自分の目を通して 自分を評価し楽しむのです 何かにしがみついたり こだわる必要が どこにあるでしょう 上手くいかないなら いくまで待てば良いだけです どうしたというのでしょう サハジャ ヨガでは指導者は 人を結びつけなければいけません その一方で 関係を壊し続ける人もいます そういう人は 文句ばかりいっています でも 優しく人を結びつけることが 出来る人もいます 許さなければいけないとかではなく 自然と出来るのです とても自然で そんな人に人は惹き付けられます アメリカでサハジャ ヨギが 少ないので驚きました 5万ドル使って 50人が来たというので 一人あたり千ドルです 非常に効率が悪いですが 希望を持たないといけません 多くの探求者がいて 道に迷っているからです 回り道のようなもので 馬鹿をやって初めて 分かるようになるかもしれません 先日の講演では 4000人の人が訪れました 米国では かつてなかったことです “こんなに人が集まったことは ありません”と言われましたが それでも多いとは言えません が リアリゼーションは得ました なので アメリカでさえも 徐々に育つでしょう サハジャ ヨギ達は自分の住居や 生活の心配だけでなく 外に出て行くべきです 余裕のあるものは アメリカに行き 働くと良いと思います 部外者が来てサハジャの話をすれば 興味を持たれるかもしれません 偽の指導者が数えきれないほどいて 受け入れられています 驚くことに お金や全てを失い 辛酸をなめても 受け入れてしまうのです “彼は私たちの師ですから”と 何を期待すべきか理解できない点で 何かおかしいのです 私は一冊 本を書いたところですが あなた方も経験やら何かを 出版できるでしょう それが人々が目を覚ます 助けになるかもしれません 何を書くにしても あなたのサハジャ ヨガの性質を表しなさい 人を傷つけてしまうとか 貶めてしまうとか気にせずに 人々を正し 助けるようにしなさい 指導者にとって 自身を勘違いしないことが重要です 貧しい あるいは豊かな家族の 出身であるなど意識しないことです ひとたびそこに至れば 指導者なのです 職人だったカビーラや トゥルシダのように インドでは低位の カーストとされていますが 美しい詩をかきました ナーマデヴァは仕立て屋でした 皆が同じ真理を 大変美しく詠いました どうして出来たのかといえば 皆 偉大なるスピリチュアリティの 領域に入ったからです あなた方も 美しい詩を詠みますが 良い詩を詠める反面 頑固で自己中心的な人もいます 美しい詩を詠めるのに エゴで一杯というのは理解できません だとしたらこの詩は 何に由来するか怪しいものです まずは自分です 人々に“本物の指導者に出会った” と言わしめるべきです その為に家族や何かを 放棄する必要はありません エゴを放棄するのです まだあるなら 何と言うべきか分かりませんが 完全にエゴを 集合的にも取り除くべきです 人々は密かにエゴを内に秘めていて 急にそれが出現します そのような精妙で 無意味な病理に耽っています このグルプージャに際し 真剣にとても一生懸命 働くように言わねばなりません 最も大切なのは どれほどあなたが時間を 人生を サハジャ ヨガに捧げたかです それで初めて あなたは指導者になります 私を見なさい ただの主婦で 家族に責任があり 問題もあります にも拘らず 常にサハジャ ヨガと サハジャ ヨギのことを気にかけていて 世界中の人類の覚醒に 心砕いています 身の回りだけでなく 世界中のです あなたのヴィジョンも拡げなさい 自分の学校や大学など 身の回りから より広いヴィジョンを抱き あらゆる問題や状況に 働きかけるべきです ひとたび そのような人格に至れば 多くの人を 助けられることに驚くでしょう ここにはそんな称賛に値する ヨギ達がいます 彼らは私を愛していて 私も愛しています ただ 指導者になるにあたって 自分を指導者だと思わないことが大切です 自分がもう指導者だと 考えるべきではありません そう考えたとたんに “ザ・指導者”と言うエゴが出てきます “自分は何でもない” “母の胸の小さなさざ波です” と思うことです そのような謙虚さを身につけると 全てが上手く働き出すでしょう あなたの振る舞い 意識に 人が啓発されるからで 他はあり得ません 何を試そうと あなた以外にサハジャ ヨガを 推進する者はいません 良き指導者については まだまだ言うべきことがありますが 次回にお話しすることにします ありがとうございました […]

シュリ ラジャ ラジャスワリ プジャ (India)

シュリ ラジャ ラジャスワリ プジャ 1991年12月6日
インド、マドラス 今日、シュリ ガネシャ プジャを行います その前にラジャ ラジャスワリのプジャを行います 女神はいろいろな名前で呼ばれました 詩人アディシャンカラチャルヤは女神をラジャと呼び  ラジャ ラジャスワリは ”女王の中の女王””という意味です。 西欧では聖母マリアのこともそう呼びましたが、 これは異教から来ています。 聖書の中に 描かれている聖母からではありません。 つまり、何回も 聖書が書き直されたのことを示しています。  それだけでなく インドの聖典であるギタさえも書き直されています。  そのために全宗教は間違った方向に逸れ始め、  知識人はそれを利用し、 自分自身の考えを主張し始めました。 彼らが言ったり、書いたりしたことは 神聖な神とは全く反したものでした。 あなた達はこの地球上で最も幸運です。 なぜなら、現実を発見したから。  たとえば 神話が真実であり、 知的なものは事実でないということ。 人々を分離する為に使われたものは 真実ではないということを知ったから。 私たちが全ての宗教を信じているので いわゆる信心深い人々は 私たちに反発しています。 なぜなら、彼らは一つの宗教のみを信じ、 その他の宗教に対して戦わなけらばならないと思っているから。 全ての宗教を信じるということは 全く信心深くないという考え方です。 彼らにとって、私たちが全宗教を信じること 全てのインカーネーション(化身)を尊重し、 全ての神の統合を信じていることはショッキングなのです。 シュリガネシャを知ったことは、 西欧人にとって大きな驚きだったに違いなく、 インド北部でさえも、シュリガネシャが インド南部程、崇拝されていません。 特にこの地域とマハラストラには 8つのガネシャスワヤンブ(swayambhu)があり 皆、それを信じています。 盲目的信仰だと言う人もいますが、 あなたはシュリ ガネシャが私の後ろに立っているのを見たことがあるでしょう。 私の中にいるガネシャも。  つまり、ガネシャという神格は存在するということです。 シュリ ガネシャの半分が見えて、 半分は私のサリーが見える写真も見たでしょう。 これは全て シュリガネ‐シャという神格がいて ムーラダーラを通して、実際に活動しているということの証です。 この知識はインド人には知られていました。 何千年も前から。 このクチプディダンスも紀元前7世紀に始まりました。 つまり、シュリ ガネシャに関する知識は、 何千年も前からあったということです。 だからこの国の人々はスピリチャルに進化した。 聖人とは何で、 どんな姿で、どんな役割があるか知っていたのです。 隠された知識ではあったが、 聖人の言うことは何でも受け入れました。 そのことに関してエゴがなかったためです。 不可解なのは、 西欧人のエゴがなぜ、こんなに強くなったのか 今だに良くわからない。 エゴを通して、なぜこんなにアグレッシブになったのか 競争のせいだとか言う人もいますが、 どちらかというと西欧の歴史である、キリストは 謙虚さ以外何者でもないことが はっきりとあらゆる文書に表されているにもかかわず、その信者は アグレッシブです。 私たちが理解しなけらばならないのは謙虚さです。 謙虚はヴィナイvinayと呼ばれ、 シュリガネ‐シャの特質である‐ Vinayaka “Vidya vinayen shobhate” ”知識は謙虚さだけで飾られている。”という意味です。 昨日偉大な芸術家の謙虚さ そこにいた偉大なグル(指導者)の謙虚さを、 またアカデミーに私を招待してくれたグルは 数多くの奉納を行い、 まるで、女神に奉納するように 私とサハジャを 受け入れてくれたことに感激しました。 このカラクシェトラKelakshetraは 神智学協会(Theosophical Society)に支配されている 彼女は神智学協会のことはあまり気にしませんでしたが、 この大きな講堂を作り、 全てを芸術に捧げた 神智学協会の人をその中に入れることは許可しなかったが 私をこのように受け入れてくれました。 彼らの献身と理解がわかります。 聖人に対して謙虚になるということは、 この国の暗黙の法律です。 聖人に対するチャレンジや独占は許されず、 聖人が言うことは全て、受け入れなければならない。 シュリ ガネシャが私たちにあたえてくれるのはvinay – “vinay”とは謙虚さです。 謙虚さとは表面的ではなく、たとえば ”ごめんなさい“とか” すみません“とかではありません。 見た目や口先だけではなく、謙虚さは 自分の中から出てくるものでなければならない。 謙虚さはエゴによって、失われます。 エゴは人を惑し、 自分のエゴに気がつかない。 私がエゴのことを話すときも、 マザーは他の人の話しをしていると思い、 ”エゴがあるのは自分自身だ“とは思いません。 シュリ ガネシャはエゴを殺すことができる なぜなら、謙虚さのみが エゴをなくすことができるからです。 謙虚になるため、何をを見なければならないか? たとえば、皆さんが来たこの国には、 とてもシンプルな人達が所有物もほとんどなく、シンプルに暮らしています。 身の回りに洗練されたものは持っていない。 葉やプラントの上の食べ物を手で食べています。 ここに住んでいた西欧人は、 これらの人々は皆、原始的だと言った人がいた。 でも、この芸術を作り上げてきた業績をを見ると、 このような素早さ、このような飛び方さでも なかなか達成できるものではありません。 なぜこのように努力するのか それは芸術に対する謙虚さからです。 芸術は尊重されるべきで、 グルは尊敬されるべきです。 尊敬がなければ、物事を学ぶことはできません。。 インド人の血の中にそれがあると思います。 暗黙にグルに従わなければならないということを知っています。 そして、グルは多くの人々を指導している。 ここにはたくさんの女子がいますが、 グルの芸術を表現するためだけにいます。 グルはあまりお金をもらってはいません。 所有物もあまりない。 また、お金もあまり請求しない。 しかし、彼の献身は まるでシュリ ガネシャが母に対するような献身です。 完全に没頭しています。 他に大事なこと何もない。 謙虚になるため、あなたは 注意を他に向けてはなりません。 これは非常に大事なことです。 もしあなたの注意が、他の問題に向けられるなら、 もし、あなたがサハジャヨガに 他の理由で来るなら、うまくいきません。 心から謙虚に 完全に謙虚にならなければならない。 彼は純粋なので、謙虚です。 純粋でなければ、謙虚にはなれません。 純粋かどうかの証拠は謙虚さでわかります。 良い子供、純粋な子供は非常に従順で、 何を言っても従います。 私の孫ですが、‐以前ネパールに行った時、 とても寒かった。 孫の母親が ”子供達は頭に何もかぶろうとしない“と言ったので、 私は“1分でそうさせましょう”と言った 孫を呼び、ありふれた布切れを渡した。 “頭を覆いなさい”と言った。“はい” 子供達はそれを頭に覆いました。 きちんと覆って、形を整えました。 見た目は少し変だったが、子供達は気にしなかった そういうことが 欠けているのです。。 だから、深さが足りないのです。 コンディショニング(様々な環境的条件)だけではない そうとはいいません。 コンディショニングを超えた インド人でさえそうです。 謙虚になるのは非常に難しい。かなり難しい 西欧の影響というかもしれない。または 過去を忘れてしまったのかもしれない しかし、謙虚さは非常に大事です。 子供の頃から、私の場合、 キリスト教の家に生まれたが、まず母なる大地に触れて、 許しを願わなけらばならなかった 頭を下げて 両親の足元に触れる。 家族の長老たちも足元も‐そうでしょう。 家族の中で年長の人々の足元に触れる たとえ、年老いた召使でも、年上の兄弟の面倒を 見てくれた召使の足元もです。 そのような謙虚さが欠けています。 また、年長者が持っていなけらばならない尊厳も欠けています。 とにかく足元を触れるのは私たちの義務で、 年長者の話はしない。 これがサハジャヨガの美しい雰囲気を作ります。 しつこく“これをすることは謙虚か?と 聞きなさい。 “こういうことをして、これを言って、謙虚だったか?” 現在の問題はリーダーに対する批判である リーダーはふさわしいからリーダーになっているわけで もし、良くないリーダーだと分かった日には、その人を追い出します 皆さんもよく知っているでしょう。 それでも謙虚さがない。 謙虚さはエゴに置き換えられ、そのエゴが リーダーの中にエゴを植え付ける。 リーダはエゴイスティックになり、多くのリーダーが 追い出されました。 いったい、いつ、バランスが取れるのかわからない どちらを責めたらいいのか?メンバーなのかリーダーなのか とにかくマザーがリーダーを任命したのだから 謙虚になりなさい。 それには何らかの 理由があるはずで、 なぜリーダーと喧嘩したり、リーダーのあら捜しをしなければならないのか? まるで、リーダーに対して結成した組合のように シュリガネ‐シャはとても謙虚で、彼の ganas(天使)は ある意味ではもっと謙虚です。 なぜなら、かれらは 母親に対して、謙虚でないガナを決して許さない。 ほんの微妙な目の動きを見ながら戦う準備をしている そして、言われたことは何でもする。 彼らは母親の全ての目線の角度を理解し、 何をしなければいけないかがわかる このような献身のみが あなたをさらに深くさせる。 ところが西欧でのやり方は 私たちをもっと広げ、宣伝し、 自分のことをもっと話し、 自分のことをもっと自慢しなければならない そうすればするほど、成功する そういうことが毎日見られる。 ”信じる“と言いはる。 信じる、信じないと言っているあなたは誰? そういうことを言っているのは誰? あなたの自らのイメージはおそらく 偉大なパーソナリティ‐とか、プロフィールを持っていることでしょう それで、プロフィールを作る。全くうわべだけの、ナンセンスなものを 驚くことに、そのようなうわべだけのプロフィールに、 人々は頭を下げる。 おそらく、その人々も見せかけだけなので そのようなうわべだけの人に頭を下げるのかもしれません。 驚いたのは、有名な詐欺師がいて、 みんな詐欺師だと知っていているのに それでも、人々はその詐欺師の前で土下座をすることです。 たぶん何らかの物質的な 利点が欲しいのかもしれない。 何らかの表面的な利点が。 そのような人と一緒に写真をとることさえ、 素晴らしいこと思われています。 このような考え方はサハジャヨギとしての目を通して見なければならない。 彼らのジョーク、ドラマ、何が起きているのか それを思い起こして、自らに問いかけ、 ”自分に中にはそういうものがありませんように“と。 時々、私たちは他人を笑うことがあるが、自分達もその仲間に入っています。 一度、自らに問いかけ始めると、自分に中にそういうものを見ることができる。 “はい、それはあります”と。 ある国のあるサハジャヨギは 報告を受けましたが、突然、 “マザーから特別なパワーをもらった“とか “私はマハマタジ(偉大な母)”とか そう言った人がいた。 私でさえ、自分がマタジだと一度も言ったことがない。 あなた達は私をそう呼ぶが、自らそう言ったことはありません。 しかし、彼は”私はマハマタジ”と言った。 頭がおかしいと言うかもしれないが、 これは傲慢が 強くなり、 本人も自分が何を言っているのかわからないです。 同じように、あなた達のリーダーを 攻撃することで、リーダーのエゴを強化するのです。 攻撃すればするほど、人は反応をし、反応すれば エゴが強くなります。 今日は先ほど話したように、 ラジャ ラジャスワリRaja Rajeshwariを崇拝します。 今まで皆さんの前でこう言ったことはない。 グルギータを読みなさいと頼んだこともない。 また 一度も 聖母マリアが”ラジャラジャスワリだ” […]

Guru Puja, The State of Guru Grand Hotel Leysin (Leysin American Schools), Leysin (Switzerland)

Guru Puja, Leysin (Switzerland), 14 July 1984.
世界中のサハジャヨギに 敬礼いたします グルプージャのために 皆がたくさん集まったのを見て とても嬉しく思います グルを直接崇拝できることは 最高の恩恵とみなされます 私の場合はとても特別で 母でありながら グルでもあります あなたはシュリ ガネーシャが いかに母を崇拝したかわかりますね あなた方も皆 シュリ ガネーシャと 同じように産まれたのですが 彼は母を敬い その後最初のグル アディグルになりました 彼こそがマスタリー(修得) の本源です 母だけが 子供を達人にできます 男性であれ女性であれ グルの中の母性が 弟子を 指導者へと育てるのです まずあなたは母性を 自身の中に育むことで預言者となり その上で他者をも 預言者にしていきます ではグルになるために リアリゼーションの後に 何をなすべきでしょう グルとは 重力を意味します 重力とは 重く 深く 惹きつける人という意味です 御存知の通り サハジャ ヨガでは リアリゼーションは 全く努力なしに起こります 普通グルは弟子を 努力なしの状態 何もすることなく プラヤトゥナ シェティリャとなり クンダリーニが上昇しました プラヤトゥナ シェティリャ 「努力を緩める」ようにします そして第2の段階 ヴィチャラ シェティリャ 無思考の状態があります これも何もせずに 得ることが出来ました 第3は思考の完全な否定 アバーヴァ 平穏の恵みです この3つの段階の必要性を 理解する必要があります まず リアリゼーションを得るときは 当面全て自発的に得られます 誰かのクンダリーニを上げるのも 自然に起こります 今やあなたも 人々のクンダリーニを上げ 確立する力を持っています ですがヴィチャラ シェティリャを もってされるべきことを理解しなさい なぜなら 思考を投影すると リアリティではなく 人為的になるからです 思考は常に あなたと現実の間に立ちます 努力をすることで体現することに 反することになります 例えば 私があなたを癒やすなら 手をかざせばそれで終わりです 私はそういう存在なので 努力がありません あなたがリアリゼーションを得たのも 私がそういう存在だからです 私は努力して考えたりしません 私はそうあるだけです 誰かを見るだけで そうなります 誰かに注意をするだけで そうなります 少し願うだけで そうなります あなたがそうだから 自分の好きなようにできます 金に例えることができます 金は錆びません 錆びないように考えることも 努力することもなく 錆びません なので そうであるために 努力は要りません 努力がいるなら あなたはまだそれに なっていないということです 太陽も輝こうと 努力することもなく輝きます なので何かになろうと努力しているなら あなたは造りものです 花は美しいので 自らを飾る必要がありません 理解しなさい あなたの内面がそうであれば 努力する必要があるでしょうか ですが 私がそう言うと 無為なグルになって 無気力でいればよいと 考えたりします だから段階があると はじめに言ったのです さて 初めの段階は シュリ ガネーシャで 母に帰依すること これが始まりです 帰依するというのは 何もしないことではなく 高次の存在を敬い 従うということです 反応したり 言い返したりせずに 受け入れるということです 母親の母乳を子どもが 無条件に吸収するようにです なのでキリストは 「子どもようであれ」と言いました しかし疑うのであれば あなたは子どもではありません なのでまず第1には 子どものような意識を育てることです ですが 子どもが覚醒していて 重力を獲得するにはどうでしょう 子ども時代を確立してはじめて 成熟に向かいます 初めが肝心です 重力とは成熟で 軽薄さではありません ガネーシャの性質は ヴィヴェカ 分別です 彼は分別そのものです 分別を育て シュリ ガネーシャにシュブッディ 智慧を授かりなさい このためにシュリ ガネーシャに 従う必要があるのです この段階では 努力を否定する必要があります 例えば ガネーシャ 純真に反することにはなんであれ それを否定するべきです だから努力の否定は 否定する努力によって 達成されるということになります 初めはあなたは 努力なしになれないでしょうから そのための 努力が必要です 例えばキリストが 「不純な目を持たないように」 といいましたが あなたの目は純真ですか サハジャ ヨガでは 目を汚すような努力から 関心をそらす方法があります 母なる大地に 草木に注意を置くなどです こうやって避けること自体は 努力です なので新しい人はあらゆる努力を やめる努力が必要だと理解しなさい 例えば 放棄について語っても 快適な暮らしを求める人がいます そのような人は 快適な習慣から出て 母なる大地に寝るべきです キョロキョロと あちこちを見回す人もいます 注意を固定しなさい すると徐々に自分が 鍛錬されてくるでしょう なのでサハジャ ヨガではまず 努力をすることが大切なのです 他には 西洋では皮肉やいやみのような 隠微な暴力がよくみられます ても鈍感で「自分は 自分は」と エゴ丸出しの人もいます そういう人は喋らない努力をして 話すことを完全にやめることです 自分がいやみや無意味なことを 言っていないか監視しなさい この監視も 努力が必要です 発芽は簡単でも その後育てるのには 努力が必要なのです 成熟すれば 自分のものになります だからまず第一には エゴやスーパーエゴにより 間違った方向に努力しようとする こころを守るための努力です でも分別をわきまえるように 気をつけなさい ほどほどが一番で 極端にならないようにしなさい 例えば音楽好きな人 彼らは 音楽だけを追求します 詩歌が好きな人は そればかりになります これらが悪いということでは 全くありませんが 自分がそこで得たものは コレクティブに還元されるべきだし 他の人の発見も あなたは楽しむべきです 例えば学があり ドライな人は 優しくなるように 努力すべきです 中庸に戻ることで 極端な性質を中和するようにしなさい 「なんでも好きです」 というのが一番です 「置かれている状態が幸せです」と 自己暗示しなさい 「私は満足であり 品格です」 これらの徳や善を 自分に当てはめて 「自分に品位があるなら そんなことはできるか」と問いなさい こうやって自問して 自己を評価しなさい ケチな人が「寛容になりなさい」と 言っていてもそれは偽善ですが 自分がケチであることを自覚するなら 偽善者ではありません なので自分にあえて 価値や目標を当てはめ 努力してそうなろうと 努めなさい すると自然に自己批判により 自分の欠点を知り 他者批判をしなくなります 他者の欠点を知って 何になるというのでしょう イギリスでインドの状況を 良くしようとしたり インドがイギリスを 良くしようとするようなものです けれどもこれでさえ人の脳には 逃げ道があります 自己批判をするときに レフト ヴィシュッディに溜め込むことです ずる賢く 小賢しいほど レフト ヴィシュッディが悪くなります そして汚物を全部そこに 溜め込んで抱え込むのです 悪い主婦が家のゴミをある部屋に 詰め込んで溜め込みながら 「ああ、うまく片付いた」 と言うのと同じです それに向き合って正すことで あなたは力を得ます 自分の機械が ポンコツなのに 人の機械を良くしようとして どうするのですか その上機械が壊れたら ロッカーにしまって 「さあこれで大丈夫」というのです さもなくば自分以外の誰かを あれこれと責めるのです 有り難いことにあなた達は リアリゼーションを得たので 私が浄化する必要はなく 自分自身ですることができます つまり 自分のグルになる ということです 自分を離れてみて言うのです 「こんにちは いかがですか いらっしゃい」 でもサハジャ ヨガには 無意味なエゴで 自分が仙人とか 偉大なグルと思いだす人がいます そして「マザー 私はあなたを 愛していたから」といいます 私を愛すれば あとの浄化は私の責任と考えます それは グルの態度ではありません グルがすることは 自他を浄化して 神格に花を捧げることです あなた方皆が グルになるまでは 私があなたのグルですが あなたがグルになれば 私はあなたの神格になります 彼らがグルになるまでは 私が彼らのグルです 彼らがその意識に 達するまでです 彼らがグルになれば 私は彼らの神格です グルは皆 例えばムハンマドも 「神は偉大なり」と言いました 彼はグルだったので 聖霊や復活について語りました そして何を言うにしても 自身が導かれる源 そこを指して 完全な自信を持って言いました モーゼやキリストも 父なる神を指さしました なので自身のグルになるまでは まず努力が必要です すると次第に努力なく 達成できるようになります 努力しないことは証明できませんが 確かめることはできます 分別ある人の前では 他者も分別を弁えるものです 正直な人の前では 正直になります サンスクリットで 「ヤタ ラジャ タタ プラジャ」 王のように民がなる といわれます あなたがグルなら あなたはお手本です お手本になりなさい 指導者である立場の人間も 様々なようです 教授とか教師とか 彼らもスピリチュアルな グルでは無いけれどもグルです 彼らも非凡さのない凡庸な生活 をしていれば弟子の信頼を失います 政治家だって 好色だったり 弱点があれば 信頼や支持を失うでしょう 彼らも人格や価値観が 求められるのです ならばスピリチュアルな 指導者はどうでしょう 優秀な人たち であるべきです 内と外の生活の区別が あってはいけません 内と外がひとつになると 努力なしになるので そうなるべきです 内側から働きかけなさい 外を内には入れられませんが 内は外に出て行きます これがアンタル ヨガ 内なるヨガの始まりです 第2の段階では 無思考になるべきです 西洋人は 思考に生きているので 他の粗雑な問題はありませんが これが大切です 例えば法律を 恐れるように育てられます カーペットなど全てを キレイに保つように育てられます 物質的なものは 全てキレイに保たれます その分内面で 調節するのです 外見は上品ですが 内面はキレイではありません 振る舞いも 眼差しも キレイではありません 内面に毒をもっていて たまに嫌味を言ったり 毒を吐くのを好みます それが他国への 悪意ある攻撃になって現れます 世界を 破壊しようとしていても イデオロギーのためなら 悪いとも思いません イデオロギーで高尚な話があれば 何だってできます この汚れは とても精巧です 風呂にも入らない人が 香水でごまかすようにです だからまず内面に 良い考えを持とうとするべきです こころを観察しなさい 他人を どう思っていますか 人種差別は この病の一つです 地位もあって 上品な服装の人が 肌の色が違ったり途上国の人に 一言多いのを見てきました サハジャ ヨギですら そうするのを見ました 私は他ならぬ サハジャ ヨギに話しているのです 急に死んだものが 生き返ってきます こころが汚れて 色情や貪欲 怒りと嫉妬で一杯です だからとても 気をつけなけれないけません 洗練された人は 弱みも洗練されているので 嫉妬が共通の病です 先日 「なんでお父さんが息子や 兄弟に怒っているの?」と訊いたら 兄弟がその息子を 面倒見ていたと 普通のことです 自分の留守に息子を 見てもらったら感謝するべきです でもその人には 独占欲があります そもそも人を不安にさせるから 自分も不安になり 独占しようとするのです 不安には 多くの原因がありますが 自分の醜さを 他人に見るというのがその一つです この内面の穢れをとるのが 外面よりもずっと大変です 単に威張りたいから 人に指図する人もいます でも まず自分に 指図しましたか 自分を十分に 修めましたか あなたは自分の師ですか 自分を修めていない人は 人に命令したがります でも 自分を修めた人は 誰をも支配する必要がありません 師になります 努力することなく マスターします そして正すため マスターのための コツを沢山知っています 話すかもしれないし 何も言わないかもしれませんが やってのけます 何もしてないのに 皆が教わることになります そして人は それを感じてわかります 腰の低い 素朴な人 かもしれませんが それは大いなる幻 マハマヤです ですから力のある人は それを見せようとしません 反対に他人が 気づくようになります なにも見せびらかす必要はないと わかってくるからです わかっている人がいるのです そんな人がいたら 見習いなさい 第3段階では サットグル である師につく努力です それがあなたが 従うべきことです サハジャ ヨギでも 表面的なことがあります あるサハジャ ヨギがショールを 特定の着方をしていました 彼を指導役として 別のヨギ達のところに派遣したら 皆が同じように ショールを着るようになりました 外見でなく 内面に従うべきです あなたは グルになる時はなります あっという間になります 自分に向き合えば なるには もう少し足りないと分かるでしょう こう話している 今でさえ 「マザーはあの人の話をしている」と 自分ではなく他人のことを考えています グルから吸収し 自分のものにするには 自分を観察することです 他人を預言者に しようとするなら まずは自分たちが 預言者になるのが大変重要です 更に高い段階では あなたのグルが神格になります グル ブランマ グル ヴィシュヌ グル デヴォ マヘシュワラと言う時です そこまでは言っても グルが女神だとは言いません ブランマ ヴィシュヌ マヘシャ よりも高い段階に行けます グルの状態とは ブランマ ヴィシュヌ マヘシャの イノセンスの力を持っています しかしそこで「グル サクシャッ パラ ブランマ」と続きます パラ ブランマとは あなたに流れる母の力です ですからあなたはパラブランマの 道具となりますがどうやってでしょう それは 自己になるだけでなく グルの状態から 神格を反映する状態になることです すると全てのエレメントを コントロールし始めます だからアディ グルの化身達は皆 エレメントをコントロールできたのです 彼らを通してブラマデヴァが 完全に現れています なのでガネーシャから アディグルは生まれ ブランマ ヴィシュヌ マヘシャの 3者として顕現します 後にブラマデヴァ として4つの顔 ブランマ ヴィシュヌ マヘシャと シュリ ガーネシャで現れます なのでブラマデヴァが グルのシンボルとなり ガネーシャはチャトヴァリとして 常に4つの顕現になります そしてブラマデヴァになる段階で 全てのエレメントをコントロールします さて 今日は皆さんにグルパダ グルの状態を説明しようとしました ここで理解すべきなのは あなた達はとても幸運で 短い間に泥の中の何もない状態から 蓮の花になったということです 蓮は多くの昆虫を招き入れ 美しくします マドゥカといわれ マドゥ 蜜を選ぶもの という意味です 蜜を得ることで 自らが蓮になります 汚く汚れた池が 蓮で覆われます グルである蓮は より高く育ち 女神に捧げられます 彼女は蓮の美しい台座の 中心に居ます でも彼女をこころに留めるには あなたにハートがなければいけません グルの多くの性質 についてお話しました 12の全ての側面の最高の性質が グルの中に現れるべきです これらの性質を 有しているのがシヴァです なのでブランマ ヴィシュヌ マヘシャの中で マヘシャ つまりシヴァの本質が あなたを通じて光るべきです ヴィシュヌの性質は ダルマで まずは良いバランスのために ダルミックになる努力が必要で そして上昇します するとヴィラ−タに至り 他者にダルマ(徳)を 与えます このように一段一段理解が深まるので 偽善者になることはありません ですがあなたが現実になるので 現実があなた自身から示されます そうなります だから自分の内なる現実を理解し 向き合い 解決しなさい ですが 大概「マザー私は違います そうじゃありません」と人は言います 前に座って自分を 見せびらかす人も居ますが それが大切なわけでは ありません 大切なのは あなたがどれくらい 自己理解を得たか つまりセルフリアリゼーションなのです 一度それがわかると 表面ではなく真の意味で他人を理解し 完全に楽しめます ミツバチは造花に ひかれませんが 人間もミツバチのように なるべきです グルは自分がグルであると 宣言する必要がありません 今日はあなたを祝福します 私は12年の グル プージャを終えたので あなた方も真のシヴァの力を 身に付けるべきです 私は 身も心も一身にあなた方の 浄化 成就に完全に寄与してきました 私の努力を どうか無駄にしないでください 自らを見て 助け 高みを目指し 自己を成就するのです 自己となった時に あなたはグルとなります グルとなれば あなたが ブラマデヴァ マヘシャ ヴィシュヌになります あなた方はまず ガネーシャのように生まれ ブランマ ヴィシュヌ マヘシャとなります けれどそれはあなたの覚悟 特に正直さと真摯さによります シュリ ガネーシャがあなたに 智慧を与えると良いのですが シャクティはあなたが一生懸命働く力を シヴァが歓びを与えます サダシヴァが己れを確立できるように あなたに歓びを与えるでしょう 神の祝福を […]